泉麻人さんは1956年生まれだそうだから、私より二つ年下、殆ど同年代である(因みに私から見ると、泉谷しげるさんが一つ年上か同い年、明石家さんまさん・所ジョージさんが一つ下だったと思う)。その泉麻人さんが「世間でいう『おやじ』とは一味違った、新しきおじさま像のあり方を提案していきたい」という触れ込みで、雑誌「BRIO」に連載されたエッセイをまとめたのがこの文庫だそうである。しかし、この「BRIO」という雑誌は“スタイリッシュな中年向男性誌”だそうで、実は私はこの文庫本を手に取るまで雑誌そのものを知らなかった(男性向雑誌なんて自腹を切って買ったのは高校・大学時代の「プレイボーイ」(もちろん日本版)位なもので、それ以降買ったことはない)。そもそも私は、自分が“スタイリッシュな中年男”になれる等という身の程知らずの根本的に誤った思い込みをする程には愚かではないつもりだが、しかし、同世代の人が「世間でいう『おやじ』とは一味違った、新しきおじさま像のあり方を提案」なんて言われるとつい食指を動かしてしまう程には軟弱なので、文庫を見た段階で手にしてしまったという訳(因みに本書は文庫オリジナルだとか)。
で「新しきおじさま像」を手にしたかというと、余りそんな感じはしない。
ただ、やはり世代的には共感する箇所は多かった。例えば
「・・・そして、Tシャツの上にチェックの半袖シャツやアロハを羽織る、というやり方があるけれど、これがなかなか難しい。
このスタイルを、腹の出た中年男が真似すると、よりいっそう腹部の膨満感が強調されて、『苦しくてボタンを外している』ように見える。確かにシャツをはだけると、『少年っぽいオレ』な気分が昂まる。が、四十なかばになって『少年っぽいオレ』をやろうとしている自分になんともいえぬ嫌悪感も感じる。さらに歩き出すと、羽織ったシャツの裾が妙にひらひらとハタめいて、何かマントを背負っているようですっきりしない。見ていると、現役の若い奴らの場合は、不思議とハタめかずにピタッと収まっているような気配なのだ。
おそらく、三十五を超えると、ホルモン機能などに変化が生じて、はだけたシャツの収まりが悪くなっていくのだろう。Tシャツの上のアロハシャツなどは、せいぜい第二ボタンくらいまではピシッと留める。もしくはラコステやフレッドベリーのポロシャツを合わせる。このとき、くれぐれも衿は立てないようにしたい。」
「『少年っぽいオレ』をやろうとしている自分」というフレーズについ笑ってしまうし、いい中年男がポロシャツの衿を立てている姿は確かに見てて何か気恥ずかしいので、最後の一文は「そうだよねぇ」と思わず共感する。いずれにしても私はファッションセンスには全く自信がないし、仕事着のダークスーツにネクタイでは済ませられないいわゆるカジュアルと言われる普段着ではGパンにボタンダウン程度でお茶を濁すしかなく(「Gパン」というか「ジーンズ」というかで世代がわかるという指摘もされている−これも笑うしかない)、胴長短躯の古来伝統的日本民族の男としては、どう足掻いても格好はつかない(尤もこれは中年になるならない以前の私固有の問題ではあるけれど)ことは自覚しているが、こういう指摘は「鋭いなぁ、オレも気をつけよう」と思いつつ苦笑する。
あるいは、最近流行の“カフェ”(「スターバックス」辺りか)で、
「僕の前にいた五十代くらいの中年男が、矢庭に『ブレンド』と注文した。が、カウンターにいた若い女の子は、『は?』という顔をしている。うわっ、やっちまったなオヤジ・・・・・・という瞬間である。店のメニューには『ブレンド』なんていう品目はない。(中略)自信に漲った言いっぷりから察して、『ブレンド』の呼び名にちょいと洒落たイメージを抱いている世代、とも目された。『ホット』でなく、さりげなく『ブレンド』と告げるオレってオシャレだろ?みたいな。ただし、もはやその種の店では“栄光のブレンド”もおや?って感じの死語となった・・・・・・というわけだ。」
同世代の共感という部分とは別に、泉さんは東京生まれの東京育ちで都会人の含羞というかソフィスティケーションというかそういうものを感じさせる文章が多く(出てくるブランド等の固有名詞は殆ど私は知らない)、田舎育ちの私にはない着眼が随所に見られてその面でも面白い。
正直これを読んで「世間でいう『おやじ』とは一味違った、新しきおじさま像」が浮かんで来るかというと余りそうは感じなかったが、上記の引用箇所に限らず、中年男の井戸端会議的な感じもあって読んで中々楽しかった本である。