丸山眞男東大名誉教授の赫々たる威光は、私の学生時代でも未だ衰えていなかった。私はいわゆる全共闘世代よりは遅い世代だが、丸山教授が全共闘世代から批判されており、その前辺り特に1960年の安保闘争が終息し出した辺りから終戦直後の輝きをジャーナリズムでは失いつつあり、いわゆる「進歩的知識人」という言葉がカッコつきで揶揄的に使用され出してその槍玉に挙げられていたことは何となく知ってはいた。しかし、批判的に読むなんて私の能力で出来るわけがないし、俗な言い方をすれば私など足元にも及ばない「知の巨人」としか目に映っていなかった。大学の政治学の教科書だか参考書だかに名著の誉れ高い「現代政治の思想と行動」が指定され、そのとき買ったまま手元にある(尤も不勉強なことに一度も通読せず幾つか広い読みしただけだが)。
この新書を手に取ったのは丸山政治学ないし丸山思想の概説を期待したのではなく、目次を見て中身をパラパラ斜め読みしていたら、知る人ぞ知る蓑田胸喜と丸山教授との接触−正確には蓑田講師を含む「帝大粛清学術講演会」へ若き丸山助手(当時)が出席していただけだが−が語られており、つい興味に駆られて買い求めた。偶々この本の直前に松本清張氏の「昭和史発掘」シリーズで蓑田胸喜が美濃部達吉博士の「天皇機関説」排撃運動の先頭に立っていた時代のことを読んだからである。
内容は正に「丸山眞男」の「時代」を「大学」「知識人」「ジャーナリズム」の観点から通覧するものであり、丸山思想ないし丸山政治学の解説書ではない。
現代にも存在するのか疑問ではあるが、いわゆる「論壇」において、丸山教授の位置づけとその変遷を様々な社会学的分析概念を駆使して行う。「文化資本」「経済資本」の構成比と総量いう分析に基づいて、「文化場」「権力場」等を位置づけ、その中でどうポジショニングして「利潤を得るか」等の見方は中々に面白い。
また、丸山教授の見えなかったもの盲点化されたものという問題提起で、戦前の軍国主義・ファシズムを支えたものとして、実は一級のインテリが大勢いたのだということが指摘される。私などは、何となく戦前を言論圧殺の暗黒時代であり、いわゆる知識人達は沈黙し或いは心ならずも戦争協力を強いられたというイメージでいたが、この部分を読んで目から鱗の指摘という感じだった。すなわち、敗戦によるもう一つの悔恨共同体という言い方で、インテリ達の「戦争を阻止できなかった悔恨」の共同体の他に、「負けたことの悔恨により今度こそうまくやろう」という共同体(それもインテリの)が確実にあるのだという指摘である。そして、考えてみれば後者も連綿として続いているのは確かに周知の通りである。この点は、一人丸山教授の功「罪」に帰せしめるべきことではないだろう。
丸山教授という一時代を画した偉大な知識人を軸として語られる一つの戦後史として、中々読み応えのある本である。