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2006.01.06(金)

四日間の奇蹟

浅倉卓弥

子供の頃に手塚治虫先生への傾倒から子供向けSF小説を読み始め、高校初めの頃までSFマガジンなんぞを買っていたが、段々読まなくなった。特にいわゆるファンタジーはSFマガジンに掲載されてあれば読んではいたが、好んでファンタジーを読むということはなかったし、その傾向は今でも続いている。意図的に読まないという訳ではなくて、普通の小説やミステリーを読み出したからというだけで、ただ、そうなった背景には私の成長なり嗜好の変化なりがあったのは当然だが、言葉は悪いがどこか絵空事という意識が忍び込み出したという面があったのは否めない。

そういう中で、正月休みに何を読もうかと書店をうろついていて、本書は第一回「このミステリーがすごい大賞」の金賞受賞作だという帯が目についたので、ファンタジーだと書いてあったにも係わらず深く考えずに手に取った。ファンタジーだというのでそれほど期待せずにいたのも正直なところである。

ところが本書は、いわゆるファンタジーでイメージされる非現実的ないし超自然的な出来事や舞台設定そのものの新奇さが売りというのではなくて、確かにそういう非現実的ないし超自然的な道具立てはあるにはあるが、それは文字通り道具に過ぎない。そして道具立て自体は実は特に目新しいものではないので、先に種明かしをしてもかまわないと思うが、「人格入れ替わり」が起こるのである。

しかし、「人格入れ替わり」自体の混乱などを描いて読者を惹き付けるのではなくて、入れ替わった人格と語り手である主人公の交流を通じて、人間の再生を描くのが本書の主題であり、そしてそれは見事に成功していると思う。

事件に巻き込まれて左手の薬指を潰し絶望したピアニスト如月が語り手であり、主人公である。そして、もう一人の主人公が事件の原因となった15歳の少女で障害を持つ千織であるが、この千織の障害は言語能力が幼児レベルだが、一方で天才的なピアノ演奏力を持つという設定である。これも実は「レインマン」という映画でダスティン・ホフマンが演ずる役で知能は劣るが驚異的な記憶力を持つ障害者という設定をすぐに思い出すが、ただこの様な例は現実に存在するのだそうで、以前NHKの脳の特集で見たことがある。この二人が施設を巡る演奏旅行を続け、訪れた施設の一つで出会った更にもう一人の主人公の真理子との間で起きた「四日間の奇蹟」が語られる。

単純化して言えば、不運な事件で挫折したピアニストが、この奇蹟で人間として再生する物語で、実はこの様に要約してしまうと極めて安っぽい底の浅い物語と誤解されてしまう危険があるが、決してそうではない。語られる内容は人間の弱さ醜さも提出しながら終に人間の尊厳にまで至るもので、それも一つのラブストーリーとなっており小難しい人権論などは出て来ず、具体的なストーリー展開でぐいぐい読ませる。

特に文章力・描写力は大したものである。ピアノを演奏する場面など活字の中から音楽が立ち上がってくるようにさえ思われて、私などは殆ど憧れてしまう。

結末はある意味で予想通りだが、そんなことはどうでも良くて素直に感動できる。感動する。

ミステリー大賞受賞作だが、いわゆる推理・サスペンス等などはなくて、でもお薦め。


浅倉卓弥<br />宝島文庫
宝島文庫
690円+税