傑作には間違いない。しかし、読んで大変に辛い本である。
私の年代より上の方々は覚えておられると思うが、いわゆる吉展ちゃん誘拐事件が内容のノンフィクションである。
随分昔、泉谷しげるさんが犯人の小原保役でテレビドラマ化されたものを見た記憶がある。そのときのデティールは忘れてしまったが、遂に自供した夜、始めて小原は熟睡した、という趣旨のナレーションがあったことは記憶している。
その原作に当たるこの本には、綿密な取材を基にした事実が積み重ねてある。昭和8年生まれという犯人小原の不遇な少年時代、出身地の土地柄、家の窮状、家族の軋轢、そして時計職人として東京に出てくる経緯、当時の東京オリンピックを控えた東京と下町の雰囲気、今読むと何かモノクロ映画を見ている気分になる。
当初の犯人を取り逃がす警視庁の失態に始まり、特に後半の小原を追い詰める平塚刑事との攻防は圧巻である。
そして中々語られなかった4歳の吉展ちゃんを殺害する場面は、本書の終わりの方で本人の供述調書の引用によって明らかにされるが、眠っている幼児が相手だから文字通り赤子の手を捻るようで、淡々と語られたとしてもその残酷さに胸が痛む。残虐非道な行いであることと同時に、それをやってしまった小原という男のそれまでの不幸な歴史が重ね合わさって複雑な感慨を生む。
死刑判決を受けた後、小原は短歌を詠み出す。その短歌を発表する場として、結核療養者の集まりが切っ掛けの短歌同人に加盟を願い出る。その加盟を願う文章は極めて丁重で節度をわきまえた立派なもので、もし小原に真っ当な環境が整っていれば全く別の人生を送った筈だということが如実に理解できる。短歌自体の巧拙は私にはわからないが、巧拙を超えた小原の心情も胸を打つ。
しかし、同じ様に真っ当な環境が与えられない人間は数知れずいるのであり、その誰もが幼児誘拐殺人に手を染める訳ではない。だから小原に同情はしても擁護は出来ないだろう。こういう事件の弁護人は辛い。
いずれにしても事件を、時代を、小原保という人間を、見事に抉り出した傑作と言えるだろう。