著者は、最近「靖国問題」(ちくま新書)を書かれ、新聞広告や各書評によると大変読まれているそうである。かく言う私も読了し、そのわかりやすさと主張への感銘からここで採り上げようかと思ったが、先日、書店で手に取ったこの文庫も素晴らしいと思ったので、こちらの方を採り上げる。
本書は、文庫としては今年2005年4月10日発行だが、単行本は1999年12月に発行されており、その時期に併せていわゆる「従軍慰安婦」問題を採り上げ、特に加藤典洋氏との論争が展開されている。
ここでは「ネオナショナリズム」批判として展開されているが、近時、いわゆる「自虐史観」なるものをでっち上げて「新しい歴史教科書」を作ろうとする風潮に対して、極めて適切に批判している。
その基本は、「応答可能性(レスポンシビリティ)としての責任」という考え方である。例えば「おはよう」と呼びかけられたときに同じく「おはよう」と「応答する」か「無視する」かという例をひきながら「他者の呼びかけに応答することは、プラスイメージで、人間関係を新たに作り出す、あるいは維持する、あるいは作り直す行為、そのようにして他者との基本的な信頼関係を確認する行為であると考えられるのではないか」とし、更に、罪責としての「戦争責任」を前提とする「応答責任」としての「戦『後』責任」へと展開する。この立論を基本的に私は支持する。でなければ、直接の戦争加害者ではない私自身が戦後補償裁判に関わったりはしない。
我々法律家が「責任」というとき、近代法に基づく個人責任が基本である。連帯責任は特別の法の規定があるか自ら連帯責任を負う意思が必要である。従って、無関係の他者の行為に責任を取る必要もないし、取らせるべきでもないことになる。しかし、これは法的な責任の問題であって、政治的・歴史的な責任とは別の次元の問題である。直接侵略行為をしたことのない戦後世代が戦争責任を負わないという言い方には飛躍があって、著者の応答責任という考え方は、この連帯責任否定の法的責任論に近い素朴な感情論に、対置できる普遍性を有すると考えられる。
なお、倫理の問題として日本が「戦『後』責任」をキッチリ果たすべきだと私は考えるが、更にプラグマティックに考えて、そうすることで日本が今以上にアジアに経済的にも政治的にも受け入れられると考えており、そうすれば金満国家だから已む無く受け入れられているという現状を脱することが出来、そうなれば国連の常任理事国入りなんて何の障害も無くなる筈であるし(常任理事国になるのが良いかどうかの問題は別にあるが)、私自身は、倫理的な反省とプラグマティックな判断が並存することが不純だとまで非難する堅物ではないつもりである。