正直なところ、この本の書「評」は私には出来ない。「読書感想文」のレベルに留まる(たいがい他の本もそうだが)。著者は社会思想史・比較文学を専攻されているそうで、この本で採り上げられている思想家・文学者・哲学者などは私の手に負えない数で殆ど読んだことがないし(これからも読めまいし)、読んだことのある思想家も極めて少数ながらいるにはいるが理解したとは到底いえないレベルなので、各思想家たちに対する著者の評価や戦後思想史の位置づけについて、批評する知識も能力も私にはないのである。
にも関わらずこの欄で本書を取り上げるのは、幾つかの分析視角を私に与えてくれたからであり、その視角は有益であると思うからである。
第二次大戦後、日本とドイツに求められた戦争責任の取り方(象徴は東京裁判とニュルンベルグ裁判)には確かに共通する面があった。日本は軍国主義の清算だしドイツはナチズムの清算であった(そしてイタリアはファシズムの清算−ファシズムは一般用語化しているが発祥はイタリア。本書では当然対象にされていない)。
その中で両国が歴史や文化が違うのは当然として、島国の日本、陸続きで西欧と東欧の架け橋となる中欧のドイツ、という地政学的な違い、戦後すぐは、アメリカに単独占領され西側反共の防波堤と位置付けられた日本、連合国に分割統治され長く東西に分かれて冷戦の象徴ともいえたドイツ、という政治学的な違いなどは勿論あるのだが、やはり根本的な違いは、いわゆる戦争勢力が終戦を境に根こそぎにされたのか一定の範囲で温存されたのかの違いであろう。換言すれば体制が維持されたのか否かである。日本に限って端的に言えば、天皇制の問題(いわゆる国体の護持)ということになろう。その結果、一般国民の戦争責任の位置づけについても両国では質的に大きな隔たりがあるようである。日本における丸山真男教授を代表として引きながら英仏の先進的な「近代市民社会」モデルが日独両国にとってどう位置づけられるかと著者が分析する面も大変興味深いが、私の素人考えでは、敗戦を機に体制変革を根本的に行ったか否かが両国の違いとしてやはり一番大きく思える。その結果、著者の素描するドイツ思想界では、根こそぎにした筈のナチス(の思想)をどんな形であれ復活させてはならないということが共通の基盤となっており、日本ではそのような共通の基盤がないことになる。
私は、第二次大戦中に中国人を中国から強制的に拉致し炭鉱などで強制労働させた中国人被害者の損害賠償裁判の弁護団に入っているが、この様な「法的責任」の問い方を強いられている、日本を相手とする中国人・韓国朝鮮人の被害者と、「基金」という形で責任を引き受けさせることが出来たナチスドイツの被害者との差について、割り切れない思いでいる。この本で、その背景を一定の理解はしても、そのまま放置は出来ないと改めて思うのである。