書名の付け方がもう一つ、という感じがする。「セゾングループと消費社会」或いは「セゾングループの失敗とポスト消費社会」か。寧ろ帯の「(セゾン)グループ誕生から解体までと戦後消費社会の実像」というコピーの方が良いと思うが、書名としては長すぎるのだろう。
正直なところ、セゾングループ(筆頭としての西武百貨店)についても、また同一人物である辻井喬氏と堤清二氏には、私は興味は無い。「戦後消費社会」の推移の分析、および上野千鶴子教授には大変な関心というか興味を持っているので、ついこの本を買ってしまった。
だから、私の興味に触れる部分では面白かったが、経営者としての堤清二氏や文学者としての辻井喬氏に関する部分は殆ど読み飛ばしに近かった。確かに私は事務所経営者ではあるが、現日弁連執行部の煽動にもかかわらず拡大路線を取る気は微塵も無いので、経営戦略なり経営者としての堤清二氏について評価基準が全くないし、興味もない。ただ、当然ながら私の関心−日本の社会学的分析−触れる部分は確かに面白い。例えば次の対話
「辻井:(略)いまや、そういう対抗軸を持たないシニシズムの時代だと思いますが、怖いことでもありますね。
上野:そこに新しく登場する公共性やナショナリズムは、フレッシュで魅惑的な動員力を持っています。だから辻井さんがご自分のことをナショナリストです、とおっしゃるときはまったく違う文脈が生まれてきます。
辻井:まったく違うんですが、そこで私は狂いだすのかなあ。つまり、いまの対抗軸を持たないシニシズムを放っておくと、その魅力的なナショナリズムのエネルギーをどこに持って行かれるかわからない。インチキ政治家が自分のエネルギーにする危険性も限りなく大きい、ということですね。」
という辺り、
「上野:(略)たいへん危険な政治家が歴史も知らずに『戦後レジームの改革』などと言い出したあげく、再起不能なかたちで失脚してくれたことはたいへん嬉しゅうございます。
辻井:同感です。
上野:公共性には右の公共性も左の公共性もあるのに、公共性を右派に持っていかれてしまった無念の思いが私にはあります。(略)」
という対話と読み合わせると、私の琴線に触れる。
経営者なり実業家を目指す人たちには大変興味深い書ではないかと思う。