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2006.10.22(日)

カポーティ

ジェラルド・クラーク原作 ベネット・ミラー監督 フィリップ・シーモア・ホフマン主演

珍しく映画評である(ただ映画「評」という程おおげさなものは私には書く能力はないので、感想文でしかない)。

今回この映画を観てみよう思ったのは、比較的最近、本メディア評欄でも取り上げたトルーマン・カポーティの「冷血」を読んだからだし、またこの映画で主演のフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー賞主演男優賞を取ったからである。

私は、この「冷血」の本編と解説の収められた文庫本1冊の知識しかないまま、その他には実在の作家カポーティその人についてはオードリー・ヘプバーン主演の映画「ティファニーで朝食を」の原作者という程度の予備知識しかないまま、映画を観たことになる。映画ファンからは勉強不足の謗りを免れないだろう。

この映画の映画評でカポーティがゲイだとは書かれていたので知ってはいたが、実物を模した演技でホフマン演ずるカポーティは私の用語で言えば「オカマ」というしかない。だから冒頭からビックリする。そして、傑作「冷血」がカポーティと犯人のペリー・スミスとの精神的「交情」を背景に成立したという流れには、二度ビックリであった。まるで私には理解できない世界である。私は、作家が通常の取材を経て(作家の能力・才能によって取材が綿密か粗雑かの差はあっても)要するに普通に成立した著作と思い込んでいたからである。しかも、その「交情」が実は同性愛者の純粋な「愛情」ではなく、カポーティの「芸術家」としての意欲なのか「名望家」としての野心なのか、いずれにしてもカポーティの側に「不純」さを含むが故に(正確に言うと逆に取材を始めた後の過程で「愛情」が芽生えたが故に)カポーティは苦悩する。自分の作品の完成を望むこととスミスの死刑執行を望むこととが表裏の関係にあるためである。この苦悩の表現にはホフマンの演技が光る。

映画としての出来をどうこう批評する能力は私にはないが、少なくとも「冷血」の原作を読んでいなかったら(アメリカ国内ではカポーティも「冷血」も誰もが知っている常識らしいが)、映画自体が理解不能と思われる節がないではなく、もし読んでいなかったら同性愛者同士のメロドラマにしか観えなかったかも知れない。その流れでいうと、「冷血」という著作自体は綿密な取材と緻密な構成と深い洞察・思索に支えられた傑作なので(その後にニュージャーナリズムと呼ばれる新分野の嚆矢とされた)、それを生み出すカポーティの執筆それ自体の苦労ないし苦悩も描かれて然るべきであったと思う。そして、カポーティは原作では被害者一家についても綿密に書き込んである。つまり、視線は加害者側だけに注がれていた訳ではないのである。その様に、作家としての冷徹な目線、被害者一家への共感、そういう複眼的な目線を超一流の作家として備えていたからこそあの傑作が書かれたので、にも関わらず、映画自体はその複眼的な目線が弱い様に思え何か芸術家の苦悩と男同士のメロドラマに私には観えてしまった。

しかし、実は製作した側は、そんなことは百も承知で映画自体の完結性を優先させたのかも知れない。にしては、何か物足らない。アカデミー賞の作品賞まで取れなかったのは、そういうことなのかしら。

ちなみに、主演のホフマンは、トム・クルーズ主演の「Mi:III」で強烈な悪役を演じている。実は私はこちらの方を先に観ていたので、それもあってホフマンのオカマ演技の衝撃が強かったのである。


ジェラルド・クラーク原作 ベネット・ミラー監督 フィリップ・シーモア・ホフマン主演<br />「カポーティ」のパンフ
「カポーティ」のパンフ
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