なぜ今ごろ中上健次と思われる方も多いと思うが、スープばかりが続くと何故か味噌汁が欲しくなるのと同じで、何となく泥臭い日本文学が読みたい気分になって書店で手に取った(ちなみに書店めぐりや書店内での本棚逍遙は私の趣味である)。不勉強なことに中上健次氏は実は私は初めてである。
しかし、途中で二度ほど投げ出そうかと思った。最初は複雑な人間関係が面倒くさくて(本の後に家系図が付いているのにしばらく気づかなかった)、しかし、間を置くと何故か気になって又読み出した。二度目放り出そうとしたのは、やはりどうにも辛気臭いなぁという不謹慎な感想を抱いたからである。しかし、それでも間を置くと何故か気になって又手を出し、結局、最後まで読み終えてしまった。つまり、私の様な読者であっても何か読まずにいられない魅力があるのだろう。
土地の呪縛、血縁関係の呪縛、と要約してしまうと怒られるだろうが、土方をしている主人公を取り巻く様々な人間模様と、近親相姦やら腹違い・種違いの兄弟やら妾腹の関係やらが縷々語られて、私の様な最近は軽いエンターテイメントを好んで読んでいるタイプの人間は段々気が滅入って来る。性と暴力というのは現代文学の大きなテーマとされているようだが、どうも私はついていけない。
ただ、時折、引き込まれる様な描写がある。
「…秋幸はいま一本の草と何ら変わらない。風景に染まり、蝉の声、草の葉ずれの音楽を、丁度なかが空洞になった草の茎のような体の中に入れた秋幸を秋幸自身が見れないだけだった。
蝉の声、呼吸の音に土は共鳴する。光が梢の葉に当り、葉がふるえ、光は地面に次々とこぼれ落ちる。
秋幸は顔をあげた。影さえ日に晒されていた。人夫たちの動くからだの下に出来た影は、薄い光にすぎない。あるのは光の濃淡だけだった。何もかも日に剥き出しになっていた。
徹は身を屈めて土をじょれんで掻き取っていた。反対に清ちゃんがスコップで土を掬っている。
風が吹く。それはまったく体が感じやすい草のようになった秋幸には突発した事件のようなものだった。現場の渓流の下手から、風は這い上がり、流れを伝い日で焼け始めた石の上を走る。道路脇の草をゆすり、人夫たちの体を舐める。山の梢が一斉に葉裏を見せ、音をたて、身もだえる。
木々の梢、葉の一枚一枚にくっついた光がばらばらとこぼれ落ち、秋幸はそれに体をまぶされたと思った。汗が黄金と銀に光って見えた。
秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。…」
土方の仕事が好きだという秋幸の気持ちが見事に伝わってくる。こういう透明な文体で語られるので、ある種ドロドロした内容も読めてしまうのだろう。
私が感じた魅力とは別の部分が評価されたのかも知れないが、大きな文学賞を受賞したのだそうである。