三島由紀夫が自衛隊市川駐屯地に乱入して割腹自殺を遂げたのは、昭和45年、私が高一のときだった。当時、私は三島由紀夫に対して映画に出たりする何か「ヘンな作家」という以上の認識はなかったので、大きな衝撃を受け、三島由紀夫の著作を読み出した。そして、三島由紀夫が早熟な天才であること、三島由紀夫が当時の私と同じ年齢で既に見事な小説を書いていたらしいことを知って、恥ずかしい話しだが焦った。自分が余りに幼く思えたからである。この年になって己の分を弁えると、早熟の天才なんて世界に一握りしかいなくて自分は只の人であることを悟り自分が三島由紀夫にライバル意識の様なものを感じたことが途方もない思い上がりだったこともわかるが(ただそういう自分が懐かしいという面は正直ある)、当時の私は己の非才と田舎の環境を呪った。
最初読んだのが「仮面の告白」であり、そこに描かれる自画像(らしきもの)にも衝撃を受けた。その後、幾つかの長編や短編集、戯曲集を読んだが、読む作品の選択は我ながら行き当たりばったりで、特に死の直前に完成させたライフワークと言われる「豊穣の海」には何故か手が出なかった。
ただ、三島由紀夫をきっかけにラディゲを知り、そこからスタンダールを読み、大江健三郎さんを読み、故高橋和巳さんを読み、その反動か吉行淳之介先生に傾倒し、という風に純文学と言われる小説群の私の読み方はある意味で正統的な読み方ではなくなって行き、最近は殆ど「純文学」は読まなくなった。例えば大江健三郎さんは長編で言えば「個人的な体験」「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」「万延元年のフットボール」辺りで止まり、その後の作品群は全く読んでいない。ノーベル賞を貰ったからと言っても食指は動かない。その理由は書けば長くなるので書かない。
ただ、正月休みにこの本を見つけて読んでみた。
正直に告白すると、私は頭が悪いのだと思った。良く言って少なくとも国文学的な頭はないのだと改めて悟った。素材となっている三島由紀夫の小説自体を読んでないものが沢山あるし「仮面の告白」も30年以上前に読んだきりで忘れている部分もあるから理解がついて行かないという面も勿論あるのだろうけれど、いずれにしても著者の様な読み方は私には出来ない。部分的にはそうだよなぁと共感するところもそこここにあるが、大筋で表題の「三島由紀夫とはなにものだったのか」という大上段の問いに対する著者の答えがうまく掴めないのである。虚構の塔に住み祖母に守られた王子様ということになるのだろうか。ただ現実の事件に素材を採るという面では松本清張氏と同じ筈なのに、三島由紀夫が松本氏の著作に反発を示したという辺りで、事実から出発しても虚構を構築せざるを得ず虚構に生きる人というイメージは掴めた様な気がした。それから、演劇に対する終章はよくわかったと思う。
著者独特の筆使いは好みの分かれるところだろう。実は、この後に「乱世を生きる」(集英社新書)という社会評論(尤も帯には「ビジネス書」と銘打ってある)も遂、読んでしまった。こちらの方は三島論より共感できたところが多い。