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2006.09.06(水)

オリエンタリズム(上)(下)

エドワード・W・サイード 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳

書評の間隔が開いたのは本書を読んでいたからである。今年2月に本欄で採り上げた「剣とペン」という著者の本を読んで感銘を受け、著者の代表作ないし既に古典の地位を獲得しつつあるという世評高い本書を読んでみようと考えて、今回、お盆休みを利用して読破する予定だった。ところがかなり難渋した。読了はしたが、理解したかと言われると到底その段階ではない。とりあえず一度は読んだというレベルである。従って、書評どころではない筈なのだが、本欄は本HP訪問者に読んで頂こうとしているだけでなく私自身の読書ノートという側面もあるので、その意味でここに記しておきたい。

本書は、イギリス・フランス後にアメリカにおいて「オリエント」(東洋)に関する知見・学説・記録・歴史などを含む「オリエンタリズム」という言説(ディスクール)が確固として確立しており、その内容は「オリエント」(東洋)に対する「オクシデント」(西洋)を自己規定する過程で、西洋中心主義・植民地主義・帝国主義・人種差別主義を基本とするものである、というものである。ただ、ここで「オリエント」(東洋)というときに基本的に念頭に置かれているのは、地理的にはいわゆる中近東ないし近東、民族的にはアラブ人、文化的にはイスラム教の支配的な地域を指し、インド以東(すなわち中国・東南アジア・日本など)は殆ど対象とされていない。

「オリエンタリズム」が上記の様な内容のものであることを論証するために、「オリエンタリズム」の成立する過程、「オリエンタリズム」が確立され牢固とした内容となる過程、やがてそれが英仏からアメリカへ承継される過程が、様々な学者・文学者・政治家・社会活動家・植民地官僚などの叙述を引きながら例証される。実は、その読解が正鵠を射ているのかが私には必ずしも良くわからない。植民地官僚などの現地人に対する蔑視やヨーロッパ優越感などは誰にでも極めて簡単にわかるのだが、文学者や歴史家、学者辺りになると、必ずしもそう読めるのか乃至そう読むべきなのかが、引用される文献の内容だけでは確信が持てず、その人物の置かれた時代や地位・職業、特に学問の性質や作品の傾向などの予備知識が相当ないと読みこなせないと思われる。もちろん本文中でそれらはかなり説明されるのだが、今一つピンと来ないことがある。他方で、さすが鋭いなぁと舌を巻く部分が多々ある。

本書はアメリカで出版されるや世界的に論議を呼んだのだそうである。そして今では「オリエンタリズム」というとき、サイード的な意味での「オリエンタリズム」とそうでない「オリエンタリズム」いう注釈を付けて使い分けることが一般的にさえなって来ているとのことである。

本書の解説によると、日本ではこの様な「オリエンタリズム」がヨーロッパから無批判に輸入された面があるとされている(例えば童謡の「月の砂漠」のイメージを思い浮かべてみると判り易いかもしれない)。また解説では、日本が「アジア」を捉えるときの視線が米英仏の「オリエンタリズム」同様の問題を含んでいないかが指摘されている。尤もである。

ちなみに本書では、アメリカの大衆の持っている乃至持たされている「オリエンタリズム」がアラブの劣等な人種という極めて差別的なものであることも批判されている。確かにアメリカ映画を観ていると、そういう場面に出くわす。「インディ・ジョーンズ」の背景にある近東、最初の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に出てくるテロリスト(どう見てもアラブ人にしか見えない)。昨年見たジョディ・フォスターの「フライト・プラン」という映画では、フォスター演じる主人公が一時アラブ人の外見の乗客に嫌疑をかけるのだが最後にこれが無実とわかり、ラストに近い場面で和解を暗示する場面がある。しかし、この場面が猛烈に私の気に障った。フォスターにアラブ人が荷物を取ってやるのであるが、流れ的にはフォスターの主人公の方が謝るべきなのに、そのときのフォスターの態度が全く逆で傲慢にしか私には見えなかったのである。私はジョディ・フォスターのファンなので、この場面は脚本なり監督が悪い(つまりは悪しき「オリエンタリズム」に毒されている)と思いたいのだが、映画自体の出来の悪さと相俟って入場料を損したと感じた。余談である。


エドワード・W・サイード 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳<br />平凡社ライブラリー
エドワード・W・サイード 板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳<br />平凡社ライブラリー
平凡社ライブラリー
各巻1553円+税