共同通信社の部長職にある著者が、勤務の傍ら東大大学院の情報学環学際情報学府博士課程に在学しつつ書かれた論文がベース。現役の記者が学問的視野から新聞の現状を捉え直してみようとされた意欲に溢れた書。
「新聞」というとき、その日の朝刊・夕刊という新聞紙を指すときもあれば、商品としての新聞やジャーナリズムの重要な構成部分として使われることもある等、多様な使われ方をする。著者は、それぞれに目配りをしつつ、中でも朝日・毎日・読売などの大新聞ではなく、その周辺に存在する(存在した)新聞に注目することによって、却って新聞の原典を描き出そうとする。
その周辺とは、戦後45年続いて廃刊となった旧鹿児島新報社でOBたちの復刊へ向けた闘い、神奈川新聞社の「カナコロ」という地域密着型のネットブログ、創刊から半年も経たず廃刊になった「みんなの滋賀新聞」、である。
それぞれに特徴を持つが、その特徴の故に或いは周辺性の故に新聞というものの根幹が見えて来る。朝日・毎日・読売などの全国紙+1県1誌というのが、第2次大戦時から今日に至るまでの新聞体制であるが、そこに風穴を開けて中々うまく行かない現状を分析する中で、いま新聞に何が必要かが考察される。
私自身は大学の法学部に入学した時点では、法律家かジャーナリストのどちらかになろうと決めており、特にジャーナリストとなって世界を股に駆けるというのに憧れていた。どこでどう間違って法律家の方に天秤が傾いたのか自分でも整理はできないが、今でもジャーナリストへの憧れは消えない。しかし、本書を読むと新聞記者も大変だよな、と思ってしまう(まぁ楽な仕事なんてないが)。
見方が一面的にならないよう新聞は複数とった方が良いと言われるが、私自身は何誌も読む気力も時間もないので朝日しかとっていないが、こういう本を読むと最低限地元紙はとる必要があるのかな、と思ってしまう。