絶え間なく我々に加えられ刺激。それを、我々はほとんど、明晰な知性で意識し処理し行動しているということを何となく前提にしている。無意識に行動するということも時にあるが、それも後付で意識する。すなわち、我々は明晰な意識下にあるのだという暗黙の前提の下で生活している。
しかし、それが実は無意識の世界が我々の行動を支配している、絶え間なく加えられる刺激が我々の「潜在意識」に働きかけて「情動」に連動していたら、どうなるか。ある意味で恐ろしい話である。況して「潜在意識」に働きかける「術」を会得している人間(達)が、それを利用したらどうなるか。
本書は、我々の行動が、明晰な理性の下で合理的な判断を下しているのではないことを様々な実験結果から論証する。恐ろしい話である。著者は明言しないが、ある意味でファシズムへの危険が蔓延していることになる。
私の学んだ法学が、近代的理性人をモデルにしたものである。ある事実・事情がその理性人に与えられれば、その物は近代的理性に従って合理的判断をとる、ということである。憲法もそれを前提にしている。しかし、人間が本々不合理なもので無意識的に情動的な行動をととれば世界はどうなるのか。「好きだから観る」のではなく「観るから好きだ」という逆転の心証世界を様々な実験結果から論証していかれるのだが、近代合理主義を是としてきた法律家の思考態様を破壊する危険に満ちているし、現代に何となく蔓延している「理性崇拝」に痛撃を与える書ということができるだろう。