先日お亡くなりになった米原万里氏を追悼する気持ちで、本書を買い求めた。
ロシア語同時通訳として活躍された同氏の立場から、通訳という仕事を考察したものである。特に本書では、口頭で行う通訳と文章化する翻訳とを使い分け、前者の意味を問うものである。
標題は、原語に文法的に忠実なものを誠実、原語から離れたものを不実、原語の意味を的確に置き換えたもの(いわゆる意訳)を美女、的確でないものを醜女とする謂いである。原語を文法的に正確に訳すことと原語の伝達内容を的確に置き換えることとは必ずしも両立することではなく、その二律背反に常に通訳者は泣かされるのだが、又そこにやりがいもある、ということだそうである。
通訳と翻訳の違いを始め、その分析は詳細である。若干くどい気がしないでもないが、それ位書かないと事情は説明されないのだろう。しかし、例によって的確でユーモア溢れる事例が引かれ、硬い学術書とは一線を画し読み物として十分楽しい。旧ソ連では権力者をコケにする小話が大いに流通していたのだそうだが、米原氏がロシア語を学んだときに、それらの小噺によるユーモア感覚も同時に学んだのだろう。
実は、我々弁護士の仕事も通訳に擬することもできる。すなわち、日常語の法律語への或いは法廷語への通訳である。法律用語や判決文は同じ日本語でありながら一般の人にはわかりにくいので(判決文は悪文の代表の様に言われる)、それを噛み砕いて一般の人にわかりやすい様に解説することが私達の仕事の一部である。そして、日常用語で語られる依頼者の要求を法廷の世界でも通用する言葉に通訳することが一番の仕事ということが出来る。では、弁護士の世界で上記の様な二律背反が起こるかというと、必ずしもそうではない(外国法の適用が問題になる場面では別である)。意訳という現象に類することは考えにくい。ただ、通訳の方々が例えばロシア人と日本人の双方に気を使わなければならないという辺り、依頼者と裁判官の双方に気を使う私達と同じだなぁと思ってしまい、その意味で、同病相哀れむという気持ちで読める部分もある。
本書は読売文学賞を受賞したのだそうで私自身も評価するに吝かではないが、ただ好みの問題だけからすると私自身はやはり「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の方が好きである。そのうち読み返そうと思う。