両著とも戦後の大作家(「淳之介流」は言わずと知れた吉行淳之介先生のこと)と交流があった編集者(村松氏は後に作家に転身)の著した本である。この様な本が殆ど同時期(前者が2007年4月30日、後者が同年3月15日の初版)に発行されたのは単なる偶然なのか良くわからないが、それぞれに対照的な味があって面白い。
描かれる作家も、同時代を生きながら周知の通り作風も作家人生も異なる(例えば病死と自死)。また著者も同じ編集者とは言いながらも所属していた出版社も、その後の人生も、そして筆致も異なる。
両書の著者とも作家それぞれと直接接したことがある訳だから、一般読者の知らなかった作家の側面を描き出すことが出来て、それぞれに確かに面白い。ただ、強いて言えば「淳之介流」の方が私的交遊録を加味した私小説解説風、「三島由紀夫」の方が私的交遊録もあるにしても評論風という味わいの違いがあるという気がする。どちらを好むかは正に人の好みだろう。
だから両書を採り上げたという訳でもないのだが、「淳之介流」の方に村松氏の「吉行淳之介の三島コンプレックス」とでもいうべき仮説が出て来るのが興味をそそる。
「私は、編集者時代に遡ってみて、三島由紀夫という存在がこの世から消えたことにより、気力を充実させた作家と気落ちした作家がいて、その気力を充実させたというか、取り戻した作家のひとりが吉行淳之介ではあるまいかとあるときふと思ったのだった。」著者がなぜそう思われたのかは長くなるので本書を読んで頂くしかないが、確かに三島由紀夫をモデルにした「スーパースター」を私自身が読んだとき、結びの「そういう些末なことよりも、はるかに大きな謎を残したまま、彼は死んでしまった。」という一文に揶揄的な(或いはシニカルな)要素が含まれているのかいないのか理解しかねて(当時、そして今も揶揄的な要素があってもおかしくないと思っている)、しばらくボーッとしたのを覚えている。
「三島由紀夫」の方からも一部引用。
1969年10・21国際反戦デーのデモを取材に著者が三島由紀夫に同行する車の中、
「ぼく(著者)が「こういう時は、なんか音楽が、BGMが欲しいですね」というと、三島は、「高倉健の『網走番外地』みたいなやつね」という。ぼくが会話を途切らせないため、「あれ、三島さんは鶴田浩二の方が好きだったんじゃないですか。」とまぜっかえすと、「うん、歳のことを考えると、学生みたいにストレートに健さんといえなくなっちゃった。でも本当は高倉健のほうが好きなんだ」
この高倉健の「網走番外地」という歌が、BGMにいいという会話は、一年後の決行の日に、本当に実行された。同じ首都高速を走る同じ車のなかで、三島は楯の会隊員四人と、その演歌を合唱した。」
なんというかなぁ、という感想しか述べられない。最高裁判事まで勤められた刑法・刑訴法学界の泰斗団藤重光東大名誉教授は、ご自身の刑訴法学説が三島由紀夫の美学に影響を与えたという趣旨のことを仰っていたが、いずれにしてもノーベル賞受賞を云々されるような近代的知性の持ち主であった筈の三島由紀夫ら男5人が「網走番外地」を合唱しながら自衛隊市谷駐屯地に殴りこむという姿に何か奇妙な感慨がある。