甲能法律事務所甲能法律事務所
検索

メディア評インデックス

2006.02.26(日)

ラ・ロシュフーコー公爵傳説

堀田善衞

ラ・ロシュフーコー公爵とは17世紀のフランス貴族で、16世紀ないし18世紀のフランス文学の中で「モラリスト」と呼ばれる文学者の一人だそうである(その他にモンテーニュやパスカルなど。−本書の解説より)。このラ・ロシュフーコーという名前は、有名な「箴言集」を書いた人だという断片的な知識はあった。その知識を得たのは、高校・大学の頃いわゆるアフォリズム(警句・箴言)に凝ったことによる。アフォリズムを集めた本を読むと、的確な比喩や意外な逆説の短い言葉で人生や世界の断片を鮮やかに切り取ってみせられたと思い、幼稚な自分が何か一つ賢くなったような自己満足を感じていた。芥川の「侏儒の言葉」、ろくにわかりもしないのにニーチェの「人間的な、余りに人間的な」等を読み、特に気に入っていたのがA・ビアスの「悪魔の辞典」だった。この「悪魔の辞典」は、幾つか覚えて友人との会話に挟んで気の利いたことを言ったつもりになっていた。例えば「達成:努力の死、嫌悪の誕生」「背中:自分が不幸なときに見ることが許される友人の体の一部」等というのは結構、麻雀のときなど冗談として使ってた記憶がある(今にして思えば鼻持ちならない奴である)。ただ、一片の警句で人生がわかったつもりになるのは、若気の至りとはいえ余りに浅はかだということに気付き始め、段々読まなくなった。もっと凝っていれば多分このラ・ロシュフーコー「箴言集」も読んだだろう。

本書は、「箴言集」の解説ではなくて(なお本書では「箴言集」ではなくて「マキシム」と呼んでいる)、ラ・ロシュフーコー公爵の回想録という形式の創作である(但し史実にはフィクションはない−らしい)。人生の前半を武人として生き、後半を文人として生きたラ・ロシュフーコー公爵の一生(前史である先祖の話まである)が一人称と三人称が使い分けられながら語られる。本書の表現を借りれば、前半と後半で全く違う二つ折りの紙の様な人生である。

前半は、当時のパリ、特に王侯貴族の権謀術数渦巻く宮廷を舞台とする様々な出来事が延々と語られる。これらの出来事が語られる中で、宗教改革によるプロテスタントとカソリックの争いやナント勅令・ウェストファリア条約などが出てくるが、高校時代の世界史の授業を思い出した。その意味で当時のフランスの時代背景などは勉強になる。因みにA・ビアスは「歴史家:広汎に亘って噂話をする輩(やから)」と言っている(この警句自体は皮肉だが私は著者に別に皮肉を言っているのではない)。

ただ正直な感想を述べると、前半の(といっても3分の2近い)この様々な出来事を読むのに段々疲れてくる。私が最も読みたいと思って本書を買ったのは「箴言集」をしたためるに至った背景の方であるのは確かだが、中々「箴言集」そのものには辿り着かない。しかし、辿り着いて「私」(作中のラ・ロシュフーコー公爵)が語る色々の箴言の解説・感想は、やはり前半を読まないと腑に落ちないのだ。多分、「箴言集」を愛読して知識のある人が読めば最初から面白く読めるのだろう。

尤も「箴言集」を軸に読む必要はなくて、17世紀のフランス貴族の生活と当時のヨーロッパ情勢を語る歴史小説として読めば、十分楽しめるだろう。

最後に仕事がらみでのマキシムを一つ拾う。

「平凡な裁判官における正義は、自己の栄進への執心に過ぎない」(MS15)


堀田善衞<br />集英社文庫
集英社文庫
930円(税込み)