米原万里氏の著作は、以前とり挙げたことがある(「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」)。氏はロシア語同時通訳の傍ら、その本の後も旺盛な著作活動を続け沢山の賞も受賞しておられる。今回は、氏の持ち味であるユーモアに絡めて、小噺をどう創るかという観点からの著作である。
この本は、小噺を集めてただ分類したという様なものではなくて、小話を分類して的確な創作法が析出してある。これを理解して体得すれば或いは面白い小噺が幾つも出来そうにも思えるが、残念ながらそうとも限らないだろう。いや、もっと正確にいうと、ある程度面白いものは出来るだろうが、爆笑ものというか本当に笑えるものは中々難しいのではないか。いわゆる考え落ちになりやすく、本当に笑えるものはやはり最後はセンスというか才能がものを言うと私は思うからである。
ただ、ここに分析し提示してある小噺創作のテクニック方法論というものを駆使して小噺を創る練習をしてみるのは、逆に論理的思考を鍛えることになるかも知れない。つまり、論理を大きく外すことが笑いを呼ぶのだとすれば、逆に論理的な答えをまず想定できなければならず、そこの論理をどう外すか、すなわち論理的前提をすり替えたり、部分を全体にすり変えたり、論理過程の一部を意図的に省略したり、結論を針小棒大に持って行ったりということを訓練することにもなるからである。ただ、おわかりと思うが、この訓練は下手すると詭弁を弄する術に長けることに通じる。その意味で、著者が時折引き合いに出される小泉首相の非論理性(私にも詭弁としか思えない非論理的発言が目立つ)が小噺に十分通じるものであることが皮肉たっぷりに書かれ、それも十分面白い。
なお、例によって本書で紹介されている法律家の小噺。
「神が陸地をお創りになると、対抗して悪魔は海洋を造った。神が太陽をお創りになると、悪魔は対抗して闇を造り出した。さて、神は法律家をお創りになった。悪魔ははたと考え込んだ。そして、思案の挙句、さらに法律家を造った。」
同じ「噺」の本でも、米朝師匠のこの「落語と私」はプロの演者の立場からのもので、落語の方法論も勿論あるが、寧ろ歴史を紐解いたり、どちらかと言えばアカデミックなもので、読んで笑える内容は殆どない。ただ、成る程そうだったのかと得心する所は多々あるので、参考になる。
ちなみに、昔、聞いた米朝師匠の落語で感心したものがあった(題名は忘れた)。
昼寝をしている町人の男が夢を観ているらしくニヤニヤしているので、その妻が男を起こす。「どないな夢見てたんや」と妻が聞き男が「いや夢なんぞ見てへんで」としか答えないので夫婦喧嘩が始まる。そこへ男の友人が来て仲裁に入る。何とか収まったところで、友人が「人が見てる夢を聞きだそうやなんて、性もないことで喧嘩しよってからに」ここで声を潜め「けど、どないな夢見てたんや、オレだけにこっそり言うてみ、嫁はんには言わんよって」「いや夢なんぞ見てへんで」ということでこれまた喧嘩になる。後は同じパターンで、町人同士の喧嘩に大家さんが入って仲裁し、しかし大家さんも又遂々夢の話を聞きだそうとして又喧嘩になり、今度はお奉行様が入って仲裁し、しかしお奉行様も遂々夢の話を聞きだそうとして「ほんまに夢やら見てませんねん」と答える男は危うく獄門の刑に処せられそうになり、今度は鞍馬の天狗に助けられるのだが、天狗も夢の話を聞きだそうとして「殺生や、夢なんぞ見てませんねん、信じとくんなはれ」と答えて天狗を怒らせ、大阪城のてっぺんに宙吊りにされる。というところで男は目を覚まし、目の前にいる妻が「何や楽しい夢見てたんやろな、どないな夢見てたんや」と尋ねるところが落ち。
この話で感心したのは、米朝師匠が主人公の町人・そのお上さん・友人の町人・大家さん・お奉行さん・天狗と、それぞれの性格も身分の違いも見事に演じ分け、しかも争いごとを仲裁するような人格者を演じながらそれでも遂々夢の内容を聞き出したくなる好奇心、もっと言えば誰でも持っている覗き趣味・助平根性が顔を出す辺りの微妙な可笑しさが何とも言えず、流石だなぁ凄いなぁと感心したものだった。