本書には、実は2年前に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という原題のまま村上春樹氏の新訳が出ている(同じ白水社)。時期遅れの書評としても、そちらの方を取り上げるべきであろうが、イマイチその気になれない。何故かというと、実は私は村上春樹氏の小説は一冊も読んだことがないので、さすがは村上氏の訳だとかなるほど村上氏らしいやなんて評価が全く出来ないのだ(何故これほど有名な作家の本を読んでいないのか、説明はできない。食わず嫌いというのとも違う。「嫌い」という感覚は全くなくて只食指が動かないとしか言いようがない)。
もう一つは、高校の頃に読んだ野崎孝氏訳の本書「ライ麦でつかまえて」の印象が余りに強くて、それ以外あり得ないような感覚がある。この村上氏の新訳では、主人公のホールデンが少々お行儀よくなった感があって、原書とはその方が近いのかもしれないが、何か物足りない。いずれにしても私の中では、主人公ホールデンは少年期固有のエキセントリックな面が強調されないとピンと来なくて、その先入主から抜けられないのだ。
この本は、高校入学頃に読んで面白かった庄司薫氏の芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」が影響を受けた小説だと聞くか読むかして手に取ったのだが、そして読んでみたら、なるほど確かに影響を指摘されるだろうなと思った。
しかし、そのことはどうでも良くて、この少々奇矯な主人公の行動や感性とその語り口に魅せられて、以来サリンジャーは私の愛読する作家になった。今でも私の本棚には「ナイン・ストーリーズ」「フラニーとゾーイー」「大工よ屋根の梁を高く上げよ…」(いずれも新潮文庫)、荒地出版のサリンジャー選集(但し第2巻だけ)のほか、読めもしないのに「The Catcher in the Rye」「Franny and Zooey」の原書(ペンギンブックスのペーパーバック版)、そして解説書「サリンジャー」(森川展男―中公新書)、評伝「サリンジャーをつかまえて」(イアン・ハミルトン―文芸春秋社)、そしてこの村上氏新訳本とそれに関する「文学界」特集号などが並んでいる。実は、サリンジャーの実の娘がサリンジャーとの生活を書いたという本を何年か前に書店で見つけて相当食指が動いたのだが、余りに大部だったし、立ち読みした部分が女性の瑣末なお喋り的に読めたので(内容は忘れた)、結局買わなかった。
「少年もの」というジャンル分けが出来るのかわからないが、マーク・トウェインの「ハックルベリーフィンの冒険」辺りを源流として、映画の「スタンドバイミー」(スティーブン・キングの原作は読んでいない)などの流れに位置づけられるのかなという気もするが、どちらかというとその流れの中では異端なのだろうか。
後年「コレクター」という映画で、犯人と被害者の女主人公が「ライ麦畑で…」について会話をする場面があって、やはりこの本は欧米では広く読まれているのだなと妙に感心した。
最後に、私が気に入っている下り。
高校を退学させられた主人公を、小学生の妹が将来どうするつもりか諫める場面である。
野崎訳
「兄さんのなりたいものを言って。たとえば科学者とか。あるいは弁護士とかなんとか」
「科学者にはなれそうもないな。科学はぜんぜんだめなんだ。」
「じゃあ、弁護士は?−パパやなんかのような」
「弁護士なら大丈夫だろう―でも僕には魅力がないな」と僕は言った。「つまりね、始終、無実の人の命を救ったり、そんなことをしてるんなら、弁護士でもかまわないよ。ところが弁護士になると、そういうことはやらないんだな。何をやるかというと、お金をもうけたり、ゴルフをしたり、ブリッジをやったり、車を買ったり、マーティニを飲んだり、えらそうなふうをしたり、そんなことをするだけなんだ。かりに人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ」