高校生から大学1、2回生の頃にかけて、私は、前衛的だったり難解だったり背徳的だったりする小説を好んで読んだ。今にして思えば、若者にありがちな、単に背伸びをして文学をファッションとしてしか捉えていなかった時期だった、それが全てではないにしても。そのせいで、高校の文学史に出てくる誰でも読んでいる様な正統的な作家も作品も私は読んでいないものが多く、極めて偏頗な読み方をしている。例えば漱石は読んだが鴎外は読んでいない、三島由紀夫は読んだが太宰治は読んでいない、ドストエフスキーは読んだがトルストイは読んでいないといった感じである(尤も、そのことを別に恥じてはいないが)。
ところが大学後半のある時期から、そういうファッション的な自分の読書姿勢に嫌気が差して、今度は逆に難解だったり生硬だったりという文学が読めなくなった。アレルギーを感じるようになってしまったのだ、それまでの反動だろうが。或いは司法試験の受験勉強のために、嫌でも読まざるを得なかった法律学の教科書のストレスもあっただろう。
そうなった後、片っ端から読んでいたのが吉行淳之介先生の本である。吉行先生の文章は、生硬で難解な文章の対極にあるが、しかし文章自体は一読平易と感じるにしても内容が単純だったり浅薄だったりする訳では全くない。吉行先生の表現されたい部分が理解できない面も勿論あったにせよ、この文章が私の肌に合った。或いは肌に馴染んだというべきか。小説・エッセイ・対談と手当たり次第に読んでいく中で、段々吉行先生に憧れるようになった。こういう男になりたいなぁという、まるでミーハー的ガキ的な憧れである。それは田舎者コンプレックスの表れでもあっただろう。いずれにしても今でも憧れは変わらないが、ただ吉行先生の様になろうという努力はあきらめた。とても私には無理だと悟ったからである。
吉行先生の本を読み耽ったのは学生時代だから金がなくて、読む本は文庫か古本だったが、多分文庫化されている吉行先生の本は殆ど読んでいると思う。尤もストーリーを覚えているものは最早ないが。
この雑誌を書店で見かけて遂買ってしまった。内容的には新しい発見があった訳ではなかったが、文庫には絶対掲載されない様な写真類が大分掲載されてあって、いわゆるヴィジュアル的な面では楽しい。また、吉行先生行きつけの寿司屋さんや天麩羅屋さん等が写真や住所・電話番号入りで紹介してあって、ここら辺りが雑誌特集のミソと言えようか。いつか上京したときは行ってみようかという気にはなるし。
ただ私は吉行先生の映像と声には接したことがなく、それは今なお心残りで、最近はやりの様に雑誌付録に吉行先生のDVDなどを付けてくれると嬉しいのだが。