本書は日本製のスパイ小説である。スパイ小説は、スパイ冒険小説と呼ばれたり国際謀略小説と呼ばれたりスパイ・アクション小説と呼ばれたり、まぁジャンル分けするには中々大変ではあるが、この本もスパイ小説の一言で規定するには内容が大き過ぎるだろう。国際謀略小説でも軍事小説でも或いは警察小説でもあるからだ。
いずれにしろ私はこの手の映画や小説が大好きである。
スパイ映画はご存知ジェイムス・ボンドの活躍する007シリーズ(私は絶対「ぜろぜろせぶん」と意地で読む。何がなぁにが「だぶるおーせぶん」だ!−いずれも平仮名なのは日本語的発音であることを強調するため)もマンガ的で面白いが(大人向けだったのは多分第3作の「ロシアより愛をこめて」までで「ゴールドフィンガー」以降は完全にマンガ。でもマンガだと開き直って見るとそれなりに楽しめる)、大分前のケビン・コスナー主演の「追いつめられて」も地味な大人向けで面白かった。比較的最近のロバート・レッドフォードとブラッド・ピッドの「スパイ・ゲーム」はアジア人蔑視が感じられてむかついた。最近ではマット・ディモンの「ボーン・スプレマシー」がスピーディで面白かった(前作も)。古典としてはヒチコック監督の名作誉れ高い「北北西に進路をとれ」が筆頭に上げられるだろう。
まぁ映画は映画で面白いのだが、かのサマセット・モームがスパイ小説を書いていたのをご存知の方はいらっしゃるだろうか。モームは第一次大戦中作家活動の傍らイギリスのスパイとしても活動していたそうで、その過程で出会った人物を描いた短編が幾つかあり(実は題名も書名も忘れた)、そして、それらの短編にはスリルもサスペンスもどんでん返しも何もない通常の文学作品の体なのだが(その意味では「スパイ小説」と呼ぶのは当たらないのだろう)、登場人物の得体の知れなさなど人物スケッチに流石モームと唸らせるところがあった。
そういう文学的伝統のせいかキム・フィルビーを生んだお国柄のせいか(キム・フィルビーはイギリス情報機関MI6の高級幹部−これはイギリス上流(貴族)階級にしかなれない−でアメリカ情報機関CIAとの連絡調整役でありながら実はソ連のスパイだったという実在の人物。これが発覚したときは米英のみならず全世界を震撼させたそうである)、スパイ小説はやはりイギリスである。「寒い国から帰ってきたスパイ」で有名なジョン・ル・カレを筆頭に、私はレン・デイトンやフレデリック・フォーサイスなど片っ端から読み漁った時期がある。帰省中にフリーマントルというイギリス人作家の「別れを告げに来た男」という新潮文庫を父の本棚から見つけ、関西へ戻る電車の中で暇つぶしに読んだら、これが面白かった。冴えない主人公と独特の暗い雰囲気と鮮やかな結末に、ウーンこんな分野があったのかと感心してしまった。それ以来の中毒である。
実は良く出来たスパイ小説はサラリーマン小説としても読めるのだ。当時、私は意に沿わないサラリーマン生活・公務員生活とどうしても肌の合わない上司の下で働いていた鬱々たる時期であり、それをスパイ小説を読むことで発散していた面が確かにあった。上ばかり見て部下のことを省みない上司、同僚との出世競争、作戦が失敗した場合に備えて逃げ道を用意しておこうと自己保身に汲々とする連中など国家の情報機関という官僚組織内部の暗闘に、敵国との間に繰り広げられる権謀術数の様々な罠などが重層的に重なって、よく出来たスパイ小説ほど読み応えがある。
そこで、ようやく本書だが、上記の意味で大変よく書かれた小説だと思う。
中国内部に潜む日本のスパイを巡って、警視庁公安部外事課の警部補を主人公に警察庁や政治家が絡み、果ては自衛隊や最後にはCIAまで出て来るというサービスぶりである。描かれている警察内部の公安組織関係がどこまでフィクションなのか事実を写したのか良くわからないが、大変興味深い。この面のイデオロギー的な記述について気になる部分もないではないが、実態を知るという意味では役に立つ面もあるので、著者と立場を異にする方々も読まれて損はないと思う。一つ難を言えば些か長いが(500頁の文庫本で全3巻)、長期の休みの際に読んでみられるのも良いと思う。私は、今年のゴールデンウィークに読了した。
読了 2005年5月9日