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メディア評インデックス

2007.02.15(木)

朝日新聞『ニッポン人脈記‐弁護士の魂』

朝日新聞編集委員(藤森・石村裕輔)、写真中井征勝

本年1月24日から2月14日まで、朝日新聞夕刊で上記の表題のシリーズ記事が掲載された。同業者に関する記事であるから毎日楽しみにしており、新聞記事検索は通常ネット検索で済ませるため保存はしないのに、この記事に関しては珍しく切り抜きまでした。

確かに面白くはあったのだが、これを一般人の方々が読まれる姿を想像すると、私としては正直危ういなという感覚がどうしても涌いて来る。「弁護士の魂」という、編集者側のある種の入れ込みというか思い込みが読み取れる標題からも推察されるように「さすが朝日」というべきか「やはり朝日」というべきか、採り上げ方がいわゆる人権派弁護士に偏っている感は否めない。私自身はどちらかと言えば人権派に近い方かも知れないし、記事に紹介されている弁護士は私が直接存じ上げている方々もいて大変尊敬に値する方々なのだが、只こういう方々が弁護士一般、弁護士の普通の姿だと思って貰っては困る、というのが率直な感想である。

例えば、公害訴訟で被害者救済に多大の貢献された弁護士の方々は確かに賞賛に値するし、その賞賛する気持ち、評価する姿勢について私自身は人後に落ちるものでは決してない。ただしかし、訴訟だから相手があることであって、企業側の弁護を担当した弁護士も確かに存在するのである。そういう弁護士の存在は採り上げないで、被害者側弁護士ばかりを採り上げて記事にするのでは文字通り片手落ちであろう。

冤罪だと争って無罪を勝ち取り、刑罰権を有する国家権力という相手方に勝つという構図は極めてわかりやすくて、そういう事例で「公権力」対「民」の構図で「民」の側の弁護士として弁護士の職務を全うしたのだから、弁護士法の観点からそういう弁護士を採り上げるのは納得が行くが、公害などは加害企業は私企業だし被害者も私人なので、言わば「私」対「私」であり、双方が弁護士を雇う(尤も被害者側弁護士は大抵手弁当であるが)。そして、双方が弁護士を立てること自体は豪も批難できないし、企業の依頼を受ける弁護士も豪も批難できないと私は考えている。別に私は企業側弁護士の肩を持つ訳ではないが、2万人を越える弁護士には例えば公害事件で被害者側の依頼を受ける弁護士も企業側の依頼を受ける弁護士もいるし、いて「当然」ということを言いたい。刑事事件で冤罪を争うことは殆どなくて(メディア評「それでもボクはやっていない」参照)、寧ろ有罪なんだけれども何とか刑を軽くしてやってくれという方向での主張をせざるを得ないときに、何であんな悪いことをした奴の弁護をするんだという批難を受けることがあるのだが、そういう仕事を引き受けるのも弁護士の使命の一つなのだ、ということなのである。それは解って欲しい。確かに例えば医師は治療を法的に拒めず患者を選べないが、弁護士の方は医師と違って依頼を断る自由がある。しかし事案によっては、企業に責任はないかも知れないし、あっても小さいかも知れない、その方向での権利主張は法廷ですべきであるし、弁護士の弁護を受けさせず審理もせずに有無を言わさず公害企業のレッテルを貼って責任を取らせるのでは法治主義ではないのだから、その弁護を引き受けた弁護士を批判・批難は出来ないし、すべきではない。それが法の支配であり、それを実現する手助けをするのが我々の仕事である。

「弁護士は基本的人権を擁護し社会正義を実現することを使命とする」と弁護士法1条に高らかに謳ってあり私はそれを誇りとするものであるが、ただしかし現代日本が資本主義社会である以上、ここでいう「基本的人権」「社会正義」の具体的実現を図る際に、私企業側の法的に正当な論理を展開することも弁護士の使命の一つだということなのである。

その意味で、今回の朝日のシリーズ記事は弁護士「界」(「会」ではない)の大きな潮流を採り上げたのは確かだが、未だ採り上げ切れていない潮流があることを指摘せざるを得ない。

加筆(2007年2月15日)

「甲能は変節した、転向した」と誤解されたくないので、若干補足する。うろ覚えだが、ボルテールの言葉として「私は君の意見に反対だ。しかし、君が反対意見を唱える権利の実現には命を懸けよう」と発言したそうである。言論・表現の自由が確立する段階のエピソードである。本欄で述べたのは、弁護士の職務でも同じことが言えるという意味である。ご理解願いたい。


朝日新聞夕刊(1月24日〜2月14日)