私は、梶原一騎先生の台頭、興隆、没落を殆どリアルタイムで見ていた(読んでいた)世代に属する。
(*注−私は漫画家志望挫折者であり、漫画・劇画界の偉大な先達は仮令好きでなくても呼び捨てに出来ない。だからといって、「氏」とか「さん」でも馴染まないので、やはり「先生」とさせて頂く)。
少年マガジン連載当時の梶原一騎原作ちばてつや絵の「あしたのジョー」が私は待ち遠しくてならなかった(アニメの方は見ていない)。なお「あしたのジョー」では原作者名が梶原一騎ではなく高森朝雄という本名(高森朝樹)に近いペンネームとなっている。一方の「巨人の星」も私にはリアルタイムだが、それ程には夢中にはならなかった。確かに楽しみはしたが、「あしたのジョー」ほどではなかった(多分ガキの頃からアンチ・ジャイアンツになりかけていたからか)。高校時代に重なる「愛と誠」になると殆ど面白いと思わなかったし、岩清水博という登場人物が繰り返す「私は君(早乙女愛)のためなら死ねる」というセリフには笑えてしょうがなかった。惰性で目を通してはいたが、多分ながやす巧先生という大変絵のうまい劇画家の絵に引き込まれたからだろう。
「あしたのジョー」「巨人の星」「愛と誠」を梶原先生の代表三部作と言っても良いのだろうが(或いは「タイガーマスク」を加えて四部作か)、私の心を惹いたのは「あしたのジョー」だけだった。そして、多分その大きな部分を占めるのが、本々私がちばてつや先生の大ファンだったという事実である。
ちば先生の漫画の系統は、「ハリスの風」「がんばれ鉄兵」「あした天気になぁれ」「のたり松太郎」と言った、運動神経抜群ながら性格は腕白でオッチョコチョイの愛すべき自然児の主人公が、権威主義的な学校や体育系クラブや業界の権威を笑い飛ばすドタバタを、何かニコニコゲラゲラ笑いながら楽しませる、という系統が一方にある(ワンパターンと言えなくもないが)。そして、他方に「紫電改の鷹」「ちかいの魔球」(それ以前の少女漫画も含めてよいかも知れない)等のシリアス路線の系統がある(尤もこれらのシリアス作品に言及できるのは相当の年配の人間の筈である)。この二つの系統の後者シリアス路線に噛んだのが「あしたのジョー」だったのだろう。
しかし、ちば先生の基本は敢えて言えばヒューマニズムで(どうも易っぽい俗な評価の仕方だが他にうまい表現が見つけられない)、それは絵の暖かさ線の優しさ(ひ弱さでは決してない)に現れている気がする。
そして「あしたのジョー」製作の舞台裏は、この本にも書かれているが、ジョーを応援するスラムの子供達との人情話的なエピソードやたまに出てくるギャグは、全てちば先生に任されていたとのことであり、ちば先生のヒューマニズムが「ジョー」のストーリーの中で確たる柱をなす。他方、梶原先生がストーリーを創る、男と男(特に力石徹と)の闘いという確たる柱がある。そして、この後者の場面、特にボクシングの打ち合いの場面では、劇画の影響も勿論あるのだろうけれど、それまでのちば先生にない相当リアルな描き込みがなされる。その凄惨な打ち合いの場面であっても、これはちば先生の絵だと思わせる線の優しさ(或いは繊細さと言ってもよいのかもしれない)が精一杯ギリギリ表現されているように私には思える。つまり舞台裏を知ると、相当に性格の違うちば先生と梶原先生の格闘の成果がジョーの魅力となっているということだろう。
ここまでは、私が敬愛するちば先生に軸足を置いた分析というか感想である。そして、それは、この評伝を読んでも動かなかった。私がジョーに惹かれたのは結局ちば先生と組むことによって描かれた世界だったからで、原作高森朝雄に拠る部分は少ないのだろうと思う。もちろん梶原先生(高森朝雄)なくしてジョーは成立し得ない訳で、梶原先生は確かに傑出した才能だとは思うけれど、結局、私が他の作品に共感できないのを見ると、そう思わざるを得ない。
なぜ「梶原一騎伝」を評するのに、ながなが「あしたのジョー」とちば先生の事ばかり書いて来たかというと、結局この本に描かれた梶原一騎(本名高森朝樹)という人物に私が色んな意味で共感できなかったからだろう。ただ、漫画・劇画界で一時期一世を風靡した「梶原一騎現象」の担い手であり、晩年(と言っても享年50歳である)は高森朝雄ではなく「梶原一騎」を演じざるを得なかった人物の、ある意味の悲劇として大変読み応えがある。戦後文化史からみても、高度経済成長時代を支えた団塊の世代の、一方の確かなイデオロギー的主柱だった筈であり、そのイデオロギーを文字通り「戯画」として生き抜いた男の一生として一読の価値があると思う。
ちなみに梶原先生は50歳で亡くなられた。今、私は同じ年である。ある種の感慨を禁じ得ない。
なお、私は今回初めて文春文庫でこの本を読んだが、その前に新潮文庫でも出ているそうである。