ハンセン病補償法の対象となるか否かで争われた二つの訴訟(台湾原告の訴訟と韓国原告の訴訟)で、2005年10月25日の午前10時、東京地裁は別々の部で、台湾原告は対象となるとの判決と韓国原告は対象とならないとの判決を下し、判断が分かれた。
裁判所の判断が分かれることは確かに珍しいことではないが、ここまで見事な対照をなした例は多くはないと思う。
裁判官は、事実を認定し、その事実に法を解釈適用することにより、訴訟となっている争いを裁定して解決する。素直に考えれば、どの裁判官でも同じ結論にたどり着くように見える。しかし、どう事実を認定するかについては、以前の判例解説にも書いたように「自由心象主義」という建前から裁判官に任されている。真実は一つと言いながらも現実には事実の見方が分かれることは珍しくない。芥川龍之介の「藪の中」(それを映画化したのが黒澤監督の名を世界に知らしめた「羅生門」)など文学でも表現されるように、日常でもよく経験することである。また訴訟における法の解釈適用は裁判所の専権事項とされる建前だが、どんな解釈をしても良いという訳ではなくて「法解釈学」という学問を学んで来て且つ実践して来て法律の専門家とされる裁判官であるから、法解釈の一定の枠はある。ただ、それでも、その枠内で、解釈が別れることはある。
憲法上「すべて裁判官は、その良心に従い独立して職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)と規定されているが、ここで微妙な影響を及ぼすのが「その良心に従い」という部分である。ここは「法律家としての良心」と理解されているが、ある意味で最後はその裁判官の倫理観・価値観だという面は免れない。本件では、平等原則をどこまで尊重するかという面で、裁判官の価値観が別れたのだろうと推測する。もっと言えば、担当裁判官が、どこまで被害者に共感できる寄り添うことができる人間かという方向からの指摘も出来ると私自身は考える。
以前熊本地裁で勝訴確定したハンセン病訴訟原告のお声を直接聞く機会があったが、この訴訟を闘った弁護士達はこれは放ってはおけないと思っただろうなというのが良く分かったし、国を敗訴させてでも被害者を救済しない訳には行かないと担当裁判官も思ったに違いないと感じた。
今回、韓国人原告の方々を負けさせた裁判官の平等意識の弱さを私は批判するが、一方で、この様な両極端の解釈ができるような曖昧な立法をした立法府(国会)も責められねばならないだろう。