鈴木宗雄氏と供に背任と業務上横領で起訴された元外交官である(本欄では過去に「国家の罠」「自壊する帝国」を取り上げた)。現在は、分筆で生活をしておられる。
いわゆる「国策捜査」という言葉を創出した本家と言える。ここで「国策捜査」とは、社会もしくは国家が変容を果たそうとしている時に、社会または国家の意を受けて、それまでだったら犯罪にならなかったものを犯罪容疑をかけて行なう捜査を言う。いわゆる冤罪ではなくて、時代の要請を受けて犯罪の適用ハードルが下がった結果、それまで不問に付されていた行為が犯罪扱いされるもので、マクロ的な背景を持つ。
著者は、国家が社会民主主義的要請から新自由主義的要請に変容したことが背景で、鈴木宗雄国会議員が冒頭の容疑をかけられた「国策容疑」の犠牲者(自分はその巻き添え)だと、「国家の罠」で説いていた。
本書は、その様な思索を育んだ東京拘置所での511日間の記録である。
「獄中記」と銘打ってあり、日付順に書いてはあるが、寧ろ「書簡集」とでも言うべきで、獄中から弁護団はじめ様々な人に宛てた書簡が多数収められている。その書簡を追う中で著者が思索を深めて行く過程が語られるのである。
本書で語られるのは、神学であり哲学であり政治思想であり、いわゆる実務官僚としての著者ではなく、言わば「思索者」といった様相が強いので、どちらかと言えば思想書を読んでいる気分になる。獄中生活の具体的外形的部分は極く僅かである。
ただ、語られる思想が結構難解で、読み勧めるのに難渋してしまった。いわゆる「国策捜査」ないしそこに至る思想について、私自身は法律家として必ずしも同意するものではないが、検察庁が独自の理念で捜査にある傾向を与えていること自体は感じる。特に感じたのはいわゆるホリエモン事件で、これは行き過ぎた拝金主義を是正したいという検察庁の意思のようなものを感じた。
国は独自の国家観を持つが、国家機関の一部である検察庁が独自の哲学を持つことで国家が歪になる危険は看過出来ない(いわゆる「検察ファッショ」という言葉もある)。
本書は、国策捜査というものを再考させてくれる良書である。