痛快。余に数多ある文章読本(私も昔読んで感心した何冊かを含む)の虚飾を見事に引っ剥がす。正に目からウロコ本。第1回小林秀夫賞受賞だそうであるが、多分、権威者の文章読本の正体をここまで暴き立てるのであるから、そういう性格の著者ご自身は賞を頂くことを喜んだり箔が付くと計算したりはなさらなかったのではないかと憶測を逞しゅうする。しかも賞を辞退するというのも何か小児病的で大人気ないし、位の感覚か。
著者は、文章読本はサムライの帝国、圧倒的な男社会だとした上で、結論的にこう書く。
「文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも『正しい文章』や『美しい文章』の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が『思想』だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう?女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が『身体の包み紙』に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は『思想の包み紙』に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど『見てくれのよさ』にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。」
そして文章の階級性を暴露した上で、「文庫判あとがき」に該当する「追記 『文章読本さん江』その後」で、単行本発行後のネット社会の発展を跡付け、こう結論付ける。
「…、本書は文章の貴族社会が崩壊する寸前、革命前夜の様相を図らずも写しとる結果になったのかもしれない。さよう、すべての歴史は階級闘争の歴史、だったのだ。革命は、そして現在進行中である。 2007年10月31日」
推理小説ではないので、先に結論を引用してしまったが、この結論に至るまでの著者の博引傍証の論の展開、そして特に書き手や引用文に対する批評の芸(というべきなのだろう、ときに寸鉄人を刺したりしながらもユーモアを失わない寸評は多分誰も真似できない気がする)を読まなければ、この結論の持つ意味・広がりは感得できないのだ。
推理小説ではないと言いながら、余りに面白かったので一気に読んでしまった。