生粋の京都人による京都人論である。
「イケズ」は関西弁ではあるが、京都人のいう「イケズ」は奥が深い(らしい)。「意地悪」「皮肉」「からかい」「面白半分」など色々標準語訳を考えてみてもどれも当てはまらない。いずれにしても本書の「イケズ」論を要約することはとても出来ないのだが、著者から出るであろう異論を無視して私なりに要約すると、「都会人の含羞とその無理解への軽蔑」ということになろうか。「京のぶぶづけ(お茶漬け)」という上方落語が、京都人の「イケズ」の典型として挙げられることに著者は異論を呈するが、私からみるとこの落語の方が未だ判り易い。
著者は、その博覧強記にものを言わせて紫式部からシェイクスピアから古今東西の文学者の言葉を引いて「イケズ」の解説を試みる。わかった気にならなくもないが、シェイクスピアが京都人の「イケズ」を含むのなら、それは「京都人の」というローカルな限定は不要の筈で、寧ろ普遍的な何かの呼び方を与えた方が良い気もするのだが、飽くまで著者は京都人の「イケズ」という言葉に拘る。
ただ京都人は日本人ではないという辺りの論は、何となくそんな気がする。京都が日本人の心の故里なんて使い古されたキャッチフレーズがあるが、多分それは大きな間違いなのだろうと思う。
私は学生時代、京都に8年住んだ。しかし、住んでいたのは左京区というところだったので、本来の京都人は中京区の人であるとのこと(著者はそうは主張しておられないが)であれば、近隣の人たちの様子から京都人がわかったとは言えないし、大体がバイトで地元の人と僅かに接した位で付き合いは学生に限られており、その学生は九州人の私を含め日本全国から集まってきた連中で、生粋の京都人はいなかった。だから、京都に住んだことがあるからこの「イケズ」がわかるかというと、正直あまりわからない。
ただ、読み物としては十分に面白い。些かペダンチックと言えなくもないが、そのペダンチズム自体が中々楽しめる。