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福岡市弁護士甲能ホーム日記インデックス2005.9.5(月):選挙の候補者名連呼

日記インデックス

2005.9.24(土)

総選挙の結果と小選挙区制

総選挙の結果、自・公の与党が3分の2以上の衆議院議席数を獲得した。

色んな分析が可能だろうが、一つ私が我慢できないのが選挙制度である。

今の選挙は、基本を小選挙区制において比例代表制は付録である。累々たる死票を発生させるこの制度では、実はほんの僅かの票数差でしかないのに今回の様に大勝を可能にし、大政党は益々大政党になり少数党は益々少数党になる。二大政党制に近づけるためにはその方が良いのだということなのだろうが(その様に「二大政党制待望論という高邁な理想」は建前でしかなく実際は所謂党利党略でしかなかったと私は見ている)、私自身は二大政党制が理想とはとても思えないので、その意味でも腹立たしい。国民の選択の自由を奪うからである。

アメリカの民主党と共和党、イギリスの労働党と保守党、それぞれ二大政党間で政権交代が行われ、その度にフレッシュな政策が行われ、逆に政党の側では政権を追われる危機感を有しつつ政治が遂行されるので、その意味で国民のためになる、として如何にも理想的な制度であるかの如く喧伝された。しかし、アメリカの政党は双頭の鷲とも言われ実質殆ど政策の差がないし、イギリスはイギリスで歴然たる階級社会が背景にあるのであって、いずれも日本が範を採るのに適しているのか私には疑問である。

昔、憲法の勉強をしていたときに、議会は国民意識との相似形を保たねばならないという学説を読んで、なる程と思った。例えば、国民のA政党への投票率が35%なら議会での議席占有率が35%となるように、B政党投票率が12%なら議会での議席占有率が12%となるように、要するに比例代表制である。得票率が50%も無いのに議席占有率が70%近いなんて、私にはどうしても納得できないのである。

その後の民主党の代表選挙で、前原誠司氏が当選した。彼は改憲論者であると聞く。自公3分の2と併せて、何かうそ寒い気がする。


2005.9.5(月)

選挙の候補者名連呼

選挙たけなわである。

あの五月蝿い選挙カーの名前の連呼には本当に辟易する。腹立たしい限りである。

あの名前の連呼は、どう考えても「私に入れてくれるな」とお願いして回っているとしか私には思えない。支持する候補や政党の連呼を聞いて、「おぉ頑張っちょるな、よしよし」と思う選挙民がどれ程いるか。いるとしても僅かしかいる筈はないし、そういう人は本々選挙カーの名前の連呼など聞かなくても投票を決意している人なのである。多くの人が選挙カーの名前の連呼は騒音以外の何物でもないと感じていることを私は確信しており、だから名前の連呼は選挙活動の中では何の役にも立っていないのだ。投票する相手を決めるなら新聞・テレビなどマスメディアの情報と政党のチラシや政見放送、更には具体的な選挙運動の活動者個人からの働きかけやシガラミの筈で、あの名前の連呼は全くの無駄どころか有害無益なのだ。もし名前の連呼で支持が拡大できると考えている連中がいるとすれば、彼らの頭が徹頭徹尾愚民思想に凝り固まっているか自らの愚かさに気付いていないかのどちらか(多分その両方)である。特に終盤に入ってからの「○○、最後のお願いに上りました!後一歩なんです!どうか私を」等と如何にも悲壮感を漂わせるかの様な絶叫調のアナウンス、自己満足・自己陶酔ズブズブのアナウンスを聞くと私は本当に吐き気がする。石を投げつけてやろうという誘惑を抑えるのに一苦労するくらいである。

どうして彼らはそれに気がつかないのか。

私のホームページの文章としては珍しく感情的かも知れないが、これを日本の民主主義の未成熟だの後進性だのと評論家的に安っぽく政治分析して総括するつもりはない。私は「名前の連呼」という選挙活動に対して、俺を馬鹿にするな!我々市民を馬鹿にするな!と、当事者として本気で腹を立てているのである。名前の連呼には「公約なんて破ったって大したことない」と国会で公然・平然と言ってのける大衆蔑視・愚民思想と通底するものを感じているからである。