暑い。クソ暑い。それでも僕はネクタイをする。長袖ワイシャツを着る。スーツを羽織る。地下鉄などで見ると今や9割以上のビジネスマンがノーネクタイや半袖シャツでスーツ姿など車両1両に一人いるかいないかなのに、お前は馬鹿かと言われそうだが(実際そういう視線を感じることもあるが)、これは僕の意地である。
なぜ意地を張るのか。
まず大勢順応というのが気に入らない。数年前にクールビズ等と称して中央政界の人間がノーネクタイを奨励して冷房温度を上げ省エネに貢献しようとしてやりだしたのが、今や常態化してしまった。私は当初、この中央政界の連中が嫌いだったから絶対真似しないぞというところから始まったが、今は中央発の奨励策で殆どのビジネスマンが右へ習えをし常態化・大勢化している現在が気に入らない。
次に、ノーネクタイは様になっていないという美意識(というと大袈裟だが)がある。ラフなスタイルとかカジュアルな着こなし等でノーネクタイはもちろん珍しくもないが(僕も休日はジーンズにポロシャツ・Tシャツである)、ビジネスマンのスタイルとしてノーネクタイが様になっている男には私はお目にかかったことがない。ネクタイ+Yシャツ+スーツの組み合わせスタイルからネクタイを取り去っただけという、私から見れば間抜け極まりないスタイルが如何に多いか。いっそ沖縄のようにカリユシがフォーマルウェアになってしまえば未だいいのだが、ネクタイ+Yシャツ+スーツ−ネクタイという一品欠落スタイルとしか表現できない着こなしをうまく様式化できている人間は私の見た範囲では皆無である。ということは、ノーネクタイであることを除けばかっこいい男性がその様に間抜けであるなら、僕がノーネクタイにしても元々の間抜け面が益々間抜けに見えるしかないということである。そんな恥は晒したくない。ネクタイ+Yシャツ+スーツという確立された様式に寄りかかっているから僕の間抜け面も未だ持ち堪えていることを僕は自覚しているのだ。
僕のアンチノーネクタイは、やせ我慢である。そしてやせ我慢は男の美徳であると僕は考えている(「男の」という表現が性差別と受け取られるなら、やせ我慢は人間の美徳であると言い換えても一向にかまわない)。
ノーネクタイスタイルがビジネススタイルとして様になる様式が確立しない限り、いつか揺り戻しが来ると僕は信じている。