コンビニチェーンは幾つかあるが、どのチェーンもどの店も皆、同じ言葉使いをする。
入店すると
「イラッシャイマセ、コンニチワァ(コンバンワァ)」
買いたい物をレジに載せると
「○○かーどワオモチデショウカ」持ってないと首を振ると「シツレイシマシタ」
「○○ガオヒトツ、○○ガオフタツ、ゼンブデ○円ニナリマス。」ここで万札でも出そうものなら「1万円カラヨロシカッタデショウカ」「オカエシガ○円ニナリマス。マズハオオキイホウカラ」等といって5千円札、千円札、を目の前で数えてみせる。
品物とお釣りを受け取って帰ろうとすると
「アリガトウゴザイマシタ。マタオコシクダサイマセ」
その無機質・機械的な感じから全部カタカナで書いたが、きっと日本全国同じ接客言葉なのだろう。まず間違いなく店員マニュアルがある。客の立場の私でさえ覚えてしまったくらいだから、きっと広範で強力なマニュアルに違いない。
私もデパートの大安売りとか個人商店のレジとかのバイトを学生時代にやったので、接客が機械的になる気持ちは良くわかるつもりではある。ただ、買う立場になってみると余りに機械的だと随分印象が悪い。しかし、他方でデパートのネクタイ売り場などで店員が親身に相談にのってくれそうに声をかけて来ると逆に鬱陶しいので、我ながら我がままだと思う。(余談だが、何気なく手に取ったネクタイに店員が「そのデザイン系統、小泉首相も良くしていらっしゃいます」と間髪を入れずに横から言って来たので、その売り場で買う気を完全に失くしたことがある−小泉支持率90%時代の話。デパートはデパートでマニュアルがあるのだろう)。
多分、私の学生時代の前後頃からだと思うが「マニュアル世代」という皮肉が言われていた。自分で考える力がないので全てマニュアルに頼る世代だというのである。マニュアルの定義にもよるのだろうが、マニュアル世代はどんな世代でもそうだった筈で(だって、学校の教科書はマニュアルの典型でしょう、パソコンの取扱説明書だってそうだし)、私自身は一概に悪いとは考えていない。十数年前だと思うが、東大教養部編集の「知の技法」という本がベストセラーになった(かく言う私も買ってしまった、でもちゃんと最後まで全部読みましたよ−もう中身は忘れたが)。これだって、「知(学問・研究)の『マニュアル』」である。
マニュアルの効用は、接客や機械操作など諸々の諸事象の最低限度の平均値を教えてくれる点にある。そして、マニュアルの限界は、それ以上のことは教えてくれなくて自分で考えるしかないという点である。そして、それを「マニュアルの限界」と評価するか「考える力の限界」と評価するかで、見方が分かれることになる。
また、マニュアルは最低限度の平均値を示すものだと思うから「マニュアル世代」との皮肉は、平均値志向すなわち均一志向自体への批判を含むものだろう。
で、私は少々開き直る。「マニュアル世代」って本当に悪いのか。私は、いわゆる「団塊の世代」の一歩後ろを歩く世代であり、団塊の世代をお手本にして来た。そして、団塊の世代は、大量生産・大量消費で、殆ど全員が中流志向で現に中流意識を一時期持っていた、というか中流幻想の目暗ましに酔えた時期があった。
ところが今や「格差社会」である。平均値を維持することさえ容易ではない。というより、「標準偏差」が「下流」に大きく傾いていると思われる時代に「平均値」を求めることは、ある意味では積極面を持つ時期に来ているのかも知れない。「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)を求めるのは憲法上の権利である。
これを「知の世界」に置き換えると、マニュアルそれ自体は知の最低限度を保障する、知を平準化するものなのかなと考えている。ちょっと強引?
*3月8日追記
まずい文章ですね。冗長な上に論旨も文も乱れているし、「最低限度の平均値」なんて、形容矛盾と非難されても仕方がない。全面的に書き直そうかと思ったが、「日記」と銘打って発表してある以上、このままにしておきます。ここまで読んで下さったかた、お許し下さい。