午前中宿舎で、福岡から持参していた損害賠償の調停申立書をパソコンで起案し、事務所からのファックス連絡により顧問会社関連の契約書点検をこなした。そのため私は参加できなかったが、午前中に外務省に中国人強制連行強制労働への善処を求める要請文を提出しようとしたが受け付けられなかったそうである。極めて杓子定規な態度である。
午後、国会内で29日福岡判決報告の院内集会があったが、折悪しく民主党の前原代表が代表の辞意を表明し永田議員が辞職するということで、民主党の両院議員総会が開かれている時間帯とぶつかり、議員本人ではなく議員秘書の参加のみであった。しかし、この問題は全体的な解決は政治的な解決しかないという理解は国会議員の認識にはあるようだ。これが力になれば良いと思う。
この間、別の弁護団代表と原告が内閣官房に要請書を提出。外務省とは違ってこちらは事前に日程調整までして会うことが出来た。
宿舎でパソコンのインターネット接続が出来る部屋に本日やっと変えてもらい、何とか中国人強制労働強制連行判決関連の情報をアップすることが出来た。
これで今回の東京活動は終わり。今度は必ず勝って上京する。
終日、東京で中国人強制連行強制労働の被害者支援活動に参加した。
午前中、被告企業の一方である三井鉱山本社へ、中国人強制連行強制労働について、昨日の判決が共同不法行為を認定したことを受けて、企業としても時効・除斥などという時の経過による責任逃れをせずに、対策をとるよう原告らと申し入れをした。
午後、被告企業のもう一方、大手町にある三菱マテアリアル本社前で、抗議行動とビラまきが行われた。ただ、私は別の弁護士と共に原告一人をお連れして、国会内の院内集会に参加した。この集会は、重慶の国際法違反の無差別爆撃に対して訴訟を起こした原告へ連帯する集会だった。
中国から来日しているのは中国人原告お二人と中国人弁護士だが、原告のお一人が杖をついて歩き歩行が容易ではないので、東京の地下鉄の移動は上り下りが頻繁で辛そうであったので、できるだけタクシーで移動する方針に変更した。
午前10時の判決言い渡しへ向けて、9時15分、中国人原告と中国人弁護士、それを支える福岡訴訟弁護団と市民の支援団体が福岡地裁に入って行く姿を、テレビその他のマスコミのカメラに収めて貰った。
その後、傍聴希望者数が傍聴席数を越える場合のために抽選をすることとなっており、法廷内の席が確保されている弁護士も抽選で当てて希望者に傍聴券が渡るよう、列を作って並んだ。花冷えの寒さのなかで待つこと約20分、ようやく抽選が始まり、私は當り券だったので担当者に渡して、法廷内に入った。
法廷撮影が行われた。テレビ局の代表カメラを2分間回し、3名の裁判官、原告席、被告席、傍聴席を順次写して行く。係の「撮影終了」を合図に、期日が始まった。
裁判官の声が法廷に響く。
「それでは、判決を言い渡します。
主文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
理由(の言い渡し)は省略します。」と早口で言って、そそくさと退廷してしまった。その間、わずか10秒余り。原告席も傍聴席もただ唖然とするばかり。1時間待ったのに、たったのこれだけか。法廷撮影に費やした時間にも及ばないではないか。いや戦後60年待った原告にこれだけの言い渡しか。北京から空路遥々やって来た原告に対して、棄却なら棄却でキチンと理由を説明すべきではないのか。それが最低限の礼儀というものではないのか。説明する自信がないのか。中国人原告と原告代理人、傍聴席を埋め尽くした支援者を目の前にして理由を朗読する度胸さえないのか。それが正しい結論だと裁判官として信ずるところに従ったのなら、堂々と判決理由を開陳すれば良いではないか。どうして、それが出来ないのか、やらないのか。
言い渡し後に裁判所から配られた「判決要旨」「判決理由骨子」を弁護士控え室で、弁護団全員で検討する。法廷での礼儀も最低なら、判決内容も最低レベル、近時の中国人強制連行強制労働判決の到達点、敗訴判決であっても論点によっては先進的な内容を含む判決、それらの水準に到底及ばない形式論理だけの判決だった。
強制連行強制労働を国と企業の不法行為である、というところまでは認定しながら、国に対しては「国家無答責」企業に対しては「除斥期間の経過」で免責し、更に原告らに対する安全配慮義務については不法行為で始まった関係に安全配慮義務など発生する余地はないという、これまでどこの判決でも書かれたことがない独自の論法で責任は認めなかった。箸にも棒にもかからない唖然とする判決であった。例えば、除斥とは不法行為による損害賠償請求権が発生したとしても行使されないまま20年間が経過した場合には客観的に権利が消滅する制度だとした上で、その20年の起算点を1945年8月末とし除斥期間の経過により権利が消滅したのは1965年末だと極めて形式的に判断している。しかし、日本と中国が日中共同声明を発表して国交を回復したのは1972年であり日中平和条約は1978年、つまり本件判決が権利が消滅したという1965年すなわち昭和40年というまでの時期は、日本と中国の間は戦争状態が終結しておらず、中国人市民が来日して賠償請求しようにも到底請求することができる時期ではなかったのは法律の素人でもわかる。にも関らず本件判決は原告らは20年間賠償請求しなかったからお前達の権利は消滅した、日本の民法ではそうなっているんだ、と平然と言ってのけているのである。そこには血の通った法解釈は微塵も見られない。昨年の福岡高裁判決は、地裁の一部勝訴判決を逆転させて中国人原告を全面敗訴させたが、その判決でも除斥ではなく時効の起算点についての判断ではあるが、中国人一般市民が自由に外国旅行が出来る建前の出入国管理法が成立した1986年だとしている。中国人原告を負けさせるにも法律家としてのそれなりの悩みを見せていたのである。又3月10日に長野地裁でも中国人強制連行強制労働の原告敗訴判決が言い渡されたが、裁判長は言い渡し後、判決文には現れないので異例中の異例ではあるが、自分自身は原告らを救済すべきであるとは思うが現在の判例を前提にする限り原告敗訴の判決にならざるを得なかったとしてお詫びの言葉を法廷で述べたという。福岡の裁判官には、福岡高裁・長野地裁の裁判官らに見られた苦悩、もっと言えば被害者原告への同情なり共感なりが欠片も見られず、時効・除斥の論点以外でも形式論理以外は何もない。
午後、上京して判決報告集会に出席した。
先日の週刊誌に、外国で傭兵として働く日本人の特集ページがあった。また、先年イラクで亡くなった日本人傭兵の方のニュースも、それほど古い話ではない。その日本人傭兵死亡のニュースで私が真っ先に感じた疑問がある(それらの記事の中で私の疑問と同じ点を指摘されたものを読んだり見たりしたことはないのだが)。それは、日本人が日本国籍を持ったまま適法に傭兵になれるのだろうかということである。
というのは、刑法3条に「国民の国外犯」という規定がある。その条文には、「この法律(つまり刑法)は、日本国外において次に掲げる罪を犯した日本国民に適用する」として、「6号 第199条(殺人)の罪及びその未遂罪」「7号 第204条(傷害)及び第205条(傷害致死)の罪」とされ、更に「10号 第220条(逮捕及び監禁)及び第221条(逮捕監禁致死傷)の罪」とされている。つまり、戦闘行為の内容である敵に対する殺傷行為あるいは捕虜として捕獲する行為は、日本人が外国で行えば、この刑法3条で犯罪に該当することになる。
国会で、イラクに派遣された自衛隊員は武器が使えるかという議論があった。確か、正当防衛が成立する状況でなら可能だというのが政府答弁だったと記憶する。正当防衛なら確かに適法だし(尤も戦闘の行われている地域に自ら進駐しておいて攻撃が来たら反撃は正当防衛だというのは問題と私は考えているが)、或いは自衛隊員は国策として派遣されているし自衛隊法という法律があるのだから、外国で戦闘行為を行ってもこれを適法化する余地は法律の理屈としてはあるだろう(これは法論理的な検討であって、自衛隊・自衛隊法・少なくとも自衛隊海外派遣は違憲であるという立場に立てば、外国での自衛隊の戦闘行為を適法化することは勿論できない)。
これに対して、日本国民が一個人ないし私人として外国軍隊に雇われて戦闘要員となることは、国策でも自衛隊法の適用でもない。そうだとすればこれを適法化する根拠は、国民が傭兵になることは職業選択の自由(憲法22条1項)の行使ということにでもなるのか。しかし、職業選択の自由は「公共の福祉に反しない限り」という制約があるので、傭兵となることが公共の福祉に反しないかは検討する必要がある。「公共の福祉」の意味するところは、憲法解釈の中で厄介な議論があるのだが、とりあえず大雑把に「国民全体の利益」と把握するとき、外国軍隊の戦闘行為に日本国民が傭兵として関与することは、個人としてでも日本の「公共の福祉」に反すると私自身は考えるが如何だろうか。例えば仮に戦闘行為の結果捕虜になった場合、日本政府が「その日本国民はあなたの国に銃を向けたが、日本国民だから安全に日本に返還せよ」という主張が通るとはとても思えない(先年イラクで人質になった民間人は戦闘に行ったのではないのだから、国民の安全を確保するのが政府の役割である以上救出は当然だと私は思っているが)。
私の疑問が正しくて、日本人の外国での戦闘行為が国外犯になりかねないとしても、検察官が日本国民を日本の裁判所に起訴して日本の裁判所が有罪としない限り犯罪とはならないのだから、日本の警察・検察庁が外国での日本国民の傭兵としての戦闘行為を捜査・起訴するということが現実的でない以上、実際に問題となることはないだろうが、この国外犯の視点を抜きに無批判に日本人傭兵のことを語るのは片手落ちだと考える。
先日うっかり午後6時を15分ほど過ぎて銀行のATMで預金を下ろしたら、105円の手数料を取られた。今、銀行預金金利は確か年0.01%だから、10万円を1年間そのまま預けていても105円の利子は付かない。それを僅か15分遅れたくらいで1年分の金利以上の手数料を取るなんて、とんでもないなと頭に来てしまった。
預ける場合の金利の低さは頭に来るが、借りる場合の金利には変動が始まっている。
昨年来の最高裁の高金利抑制の判断、解釈によるいわゆるグレーゾーンの実質廃棄(詳しくは判例解説を読んで下さい)により、金融庁がグレーゾーンの撤廃を打ち出し、更に「過剰貸付」の規制に乗り出した(3月6日、朝日朝刊)。
近時の最高裁の判例により、金利計算を利息制限法で計算し直すことが容易になり、過払い返還請求が増加している面もあり(これも判例解説を読んで下さい)、我が世の春を謳っていた消費者金融の会社には俄かに逆風が吹き出してきたということになろうか。
いわゆる小口金融とか消費者金融は言わば庶民の財布という面がある。緊急に金が必要だが手持ちの金がないときは担保などの財産がなくても頼りになるという意味で、全て悪徳視するのは誤りだろう。
しかし、過剰貸付に高金利と来ては庶民の味方とはとても言えない。派手なテレビCMを繰り返すことで借金に対する抵抗感を完全に払拭し、結局、個人消費の拡大(見方を変えれば浪費)を図ってきたのが今までの消費者金融の商売のやり方だと私は思う。その意味で、浪費を煽るテレビの罪は重い(尤も商品CMを垂れ流し続け庶民の購買欲を煽りに煽るのが民放テレビの役割なのだから消費者金融だけの問題ではないが)。いずれにしても個人消費が冷え込んで景気が低迷していた頃には、個人消費を煽る姿勢で問題はなかったのが、景気が上向きになって来て最早個人消費(浪費)を煽るタイプの消費者金融業者は、役割を終えようとしている様に思える。元々期待されている庶民の財布という路線に軌道修正を迫られていることになろうか。
ただ借りる金利が下がるのは良いが、預ける金利が低いままなのは本当に早く何とかならないのか。