荒井由美ことユーミンさんと中島みゆきさんを併せて取り上げた歌番組を、昨晩、民放テレビでやっていた。このホームページの内容からいえば、メディア評に取り上げるべきかもしれないが、番組をちょっとしか見なかったし、お二人をそれ程フォローしている訳ではないし、最近の歌は中島みゆきさんのプロジェクトX主題歌(正式の題名は何というのか「風の中の昴ゥ〜」という奴である)くらいしか知らないので、雑感という趣旨で日記の方に書くことにする。
多分、このお二人の両方ともファンだという方はいないのではないかと思う。ユーミン好きの中島嫌い、中島好きのユーミン嫌い、という犬派か猫派かというのと同じ位、「宗派」が違う気がする。そして私は躊躇なく明らかにするが、中島好きのユーミン嫌いである。
中島みゆきさんの歌には私自身は泣かされる。例えば「この空を飛べたら」という中島さん作詞作曲で加藤登紀子さんが歌っておられる随分昔の歌があるが、加藤登紀子さんが「こんなにもこんなにも空が恋しい」と朗々と歌い上げるときには、失恋当時の胸苦しさが蘇って胸が痛くなる(尤も私は歌手としての加藤登紀子さんの歌声・歌い方が好きなので−実は加藤登紀子さん作詞作曲の歌はそれ程ではない−、そのせいもあるだろうが)。その様な個人的体験を歌う歌だけでなく、中島さんデビューの歌「時代」も、何か輪廻転生とは言わないまでも、文字通り「時代はめぐる」という中で、人が「旅人」でしかあり得ないということを透徹した思いで実感させてくれる歌だと思っている。その他にも、題名は思い出せないが、かなり社会派の歌があった。
対して、正確な引用ができないが、ユーミンさんはデビュー当時だったか大分前に、「音楽はお金持ちしか出来ない」という趣旨のことを言っておられたと記憶する。確かユーミンさんは東京の呉服屋さんの娘さんか何かで、いわゆる「お嬢」だった筈である(「お嬢『様』」といいう程のことはあるまい)。例えばクラシック音楽や具象画などの芸術がヨーロッパ貴族の庇護の下に始まったという歴史的事実は間違いないので、ま、それはかまわないと言えばかまわないのだが、高々日本のお金持ちの娘さんが口に出来る言葉かなと思った記憶がある。
昨夜の番組でもユーミンさんの「『いちご白書』をもう一度」という歌を「ばんばひろふみ」さんという方が歌っておられたが、この歌詞には昔から唖然とするところがある。昨夜も改めてそう思った。「就職が決まって髪を切ったことについて、『もう若くはないよ』と君に言い訳した」という下りである。「いちご白書」という映画は私も観たが、アメリカの学生運動を好意的に描いたもので、しかし、私が感じたのは映画的演出が過ぎる、というより、大学当局を始め社会に対する改革を志して学生運動に止むに止まれず引き込まれる切っ掛けの社会悪ないし社会の現実そのものに対する認識・怒りという面が余りに等閑にされている、つまり映画としての説得力を欠いているというものだった。しかし、この映画のファッション性が日本では当時うけた。そしてユーミンさんの歌は、そのファッション性に無批判に乗っかって只の懐旧の歌に仕上げてしまうのである。学生運動なんて「もう若くない」から脱ぎ捨てるだけの「ファッション」なのである。私自身は、いわゆる学生運動には関わらなかったが、そのパッションは共有していたという自負がある。それは法律家としての今の生き方に現れている筈である。もう若くないからといって簡単に脱ぎ捨てられるような軽い服として着られては堪らない。
たかが歌謡曲たかがニューミュージック、そんな難しいことを言いなさんな、という意見はあろうが、私はそうは思っていない。私がサブカルチャー論を書評でも盛んに採り上げるのは、人々の意識はそういうところに如実に表れるからである。難しい思想書や哲学書を読んで議論することで(それはそれで必要だが)、そう簡単に世の中は変わりはしない。いわゆるサブカルチャーの中の思想性を摘出し批判的に再構築する作業は欠かせない、という生意気なことを書いて本日の日記はお終い。
所得格差について、朝日新聞が世論調査をしている(朝日2006年2月5日朝刊)。
所得格差が広がってきていると考える人が74%、そしてそれを問題だと考えている人が51%ということである。問題だと考える人のうち、格差が「個人の能力や努力以外で決まる面が多い」とみる人が54%、問題ないと考えている人の72%が、格差は「個人の能力や努力で決まる」と考えている。
公正な競争の結果、格差が発生するのであれば私も問題視はしないが、実際、公正な競争が保障されているのかに大きな疑問がある。例えば今の日本で、金持ちの子供に生まれたか貧乏人の子供に生まれたかによって、受けられる教育の内容に格差があるのは歴然としているし(私学と公立を対比させたり塾費を負担できるか否かを考えてみればよい)、受けられる教育によって就ける職業も違って来るのであり、職業によって所得の多寡が違って来る。これが繰り返されることによって、金持ちの子は金持ちに貧乏人の子は貧乏にと格差が固定してくるのである。
貧乏人の子にも奨学金制度などで高等教育が受けられる制度があるとされるが(確かに私も県立高校・国立大学いずれも奨学金を受けたが)、今の幼稚園時代から小学校、中学校まで都会の私学が整備されている現状をみると、同じ能力なら、金持ちの子に生まれて例えば幼稚園から私学に行き小学校でも塾に行かせて貰って中高一貫の私学に入れて貰ったほうが丁寧な教育を受けられて、その後の進路も違って来るのではないか。幼稚園時代から金をかけた教育競争が始まっているのに、奨学金は後追いの制度になっている(勿論なくてはならない制度だが)。勿論いまどき有名大学さえ出れば将来が保証されているという訳でないのは承知しているが、学歴が有力な就職条件であること自体には大きな変化はない筈である。
ロシアのプーチン大統領はレニングラード大学という名門校の出身だが、彼が進学した当時はロシアが社会主義国で教育は平等という建前のもとで学力さえあれば所得に関係なく進学できたが、ロシアが資本主義国に転じて所得格差が生じた今は貧困層の子供は進学できないと新聞か何かで読んだ。
せめてスタートラインは同じにしないと、公正な競争とはとても言えないのではないか。誰の子弟でも充分な教育を受けられるように整備しないと、高い授業料を払える層の子弟のみが充分な教育を受けて、高所得を得られる職業・会社に入れるというのでは不公平だと思う。
その様な私の危惧は、法曹養成制度にも及ぶ。新たな制度は、2年ないし3年の法科大学院に通える資力のある者もしくは資金を調達できる者にしか門戸が開かれていないのである。
さらに言えば、もともと私自身は所得格差というとき、一方に大金持ちがいて他方に貧乏人がいるという格差自体も大きな問題だとは思うが、他方の絶対的貧困層を生じさせてはならない、と思う。こちらの方も競争の公正さと共に重大な問題だと思っている。