プロ野球シーズンが終わった。我がホークスは又してもプレーオフで破れ日本シリーズ出場はならず、代わってロッテはタイガースに一勝も許さず完勝して日本一になった。
私はプロ野球ファンではあるが、熱狂的という程のことはない。それでも、スポーツ新聞や週刊誌のプロ野球記事はつい読んでしまうが、そこで採り上げられるプロ野球の暴露記事的な内容は余り感心しない。何か監督と選手や選手同士の確執を面白おかしく取り上げて、これなら女性週刊誌の芸能人同士の恋仲や離婚を取り上げるのと大して代わり映えはしない。
大新聞の代表者でありながら「たかが選手」等という差別発言を平然と言ってのける愚劣さ・低劣さやら、我がチーム可愛さを優先してオリンピックに選手を出し渋りながら戻ってきたオリンピック他競技の金メダリストをシャアシャアと始球式で投げさせる身勝手さや、他所のチームが手塩にかけて育てたスター選手を金に飽かせて引き抜き掻き集める貪欲さ、しかもその選手を飼い殺しにして他所のチームの強化を妨げる等などの自己中心主義の幼児性を徹底的に批判するのは当然だが、監督・選手の人格批判的な内容がまかり通っていることは、やはり問題だろう。
と言いつつ、この内容が私が大の巨人嫌いであることは少しプロ野球のことを知っている人なら一読明らかの筈。ただ以前はアンチ・ジャイアンツに意味はあったが、最近はアンチ・ジャイアンツを言うことが弱い者虐め的に響くところが情けない。悪役が強くないドラマは全く面白みに欠けるのであり、その意味でも少しはジャイアンツも考えて欲しいものだと思う。球界の盟主だの紳士だののメッキが剥がれて既に久しいが、もう少しまともな球団になってもらわないと批判し甲斐がないというものである。
ちなみに私は福岡市民の義務として、ホークスを応援していたが、実は以前は近鉄ファンだった。それがチームが無くなってしまい大変悲しく、結局ホークスファンが義務感ではなく真実ファンになってしまった。来年こそは頑張って欲しいと思う。
小泉首相の靖国参拝が何故問題になるかといえば、他のアジアの国々からすれば侵略の音頭をとったA級戦犯が祀られているからだが、日本国民の側からいえば国家が特定の宗教(靖国神社という宗教法人)を援助するという、政教分離原則の違反が問題になるからである。
私自身は、特定の宗教を信仰する者ではないが、キリスト教徒でもイスラム教徒でもヒンズー教徒でも或いはいわゆる新興宗教の信者でもないのは確かでも、仏教徒ではない、とは言いにくい。実家には祖父を始めご先祖様を祭る仏壇があり、家は浄土真宗のお東様だと聞かされている。帰省した際には必ず亡くなった祖父母や叔父のことを思い出しながら仏壇に手を合わせるのだが、そのこととお釈迦様の教えを信仰しているかということと同じかというと、どうも違う気がする。そもそも仏教は宗教なのかという疑問もある。
宗教とは何かというと、実は宗教法人法という法律は定義していない。法的な意味での定義は難しいからだと言われている。法律家の間では有名な津地鎮祭訴訟の高裁判決文では、憲法でいう宗教とは「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」と定義され、広辞苑では「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。…」とされている。いずれも定義としては難しい言葉を使っているが、実も蓋もなく言えば、神・仏を信じる行為ということになろうか。
その定義からすれば仏教も宗教の一種だろうが、寧ろお釈迦様の教えは、当然に「超自然的存在の確信」を教えるものではなくて、仏陀という実在の人物の人生訓の体系のような気がする。その意味では、哲学や思想に近いのではないか。「般若心経」に関する解説本を何冊か読んだが、益々そういう気がする。
私は神・仏の存在を確信はしないし、霊魂の存在も信じない。いわゆる「慈悲深い神」という様な擬人化した「神」は全く信じない。もし「慈悲深い神」が存在するならば、何故かくも悲惨な人間世界の現実があるのか説明がつかない。戦争を典型に、意味なく殺され虐待されなければならない人々や子供が、どうしてこんなに地に溢れているのか溢れてきたのか、もし「全知全能」の「慈悲深い」「神」がいるのなら、この現実と歴史を放置しておける筈はないのである。遠い将来最後の審判で悪が裁かれたり、死後に善人は天国に行き悪人は地獄に堕ちるなんて話は、現世は辛いけど死んだら楽になるからね今は我慢しようね等という戯言にしか思えない。宗教はアヘンだと言われる所以である。
ただ、私自身は、人智を超えた何ものか(何「者」なのか何「物」なのか)は「在る」のだろうと思っている、擬人化された慈悲深い神という形ではなく。
それは自然が余りにも不思議だからである。人間という生物ひとつをとってみても、かくも精妙な仕組みを持つ生き物が、ただ自然の発展だけでここまで進化したとは私自身は信じられない思いでいる。或いは、例えばある種の生き物は「擬態」を示すが、この「擬態」という複雑精妙な生態は「何らかの意識の産物」ではないかと私自身は疑わざるを得ない。落ち葉そっくりの擬態を示す蛾は、頭の中でまわりの落ち葉を主観的に認識し、自分の羽をその落ち葉そっくりにしようとして、且つ出来ていることを客観的に認識できることになる。しかし、突然変異という偶然の積み重ねと適者生存の繰り返しで、あの様な落ち葉そっくりの蛾が出来る確率は一体何パーセントあるのだろうか。宇宙は広くて歴史は長いから(宇宙の存在そのものも不思議でしょうがない)、その様な生物が発生する確率はゼロではないというような説明ではとても信じられない。偶然に擬態が出来る生物が発生する確率は私自身ゼロだと思う。そこには何らかの「意識」「意図」「作為」が働いているとしか思えない。だとすれば、その様な「作為」が出来るのは「人智を超えた何ものか」としか私には表現できないのである。多分、「宇宙の法則」とか「自然の法則」というような表現が私の感じ方に一番近いのだろう。
私は現世の悪を無くすのは人間の責任で、「神」を信じることが現実逃避であるなら「神」を頼るべきではないと思っているが(現実に立ち向かう立派な宗教者は沢山いらっしゃる)、一方で自然やこの世界に対する畏れ・敬虔な思いは抱き続けて行こうと思っている。
昨日(10月5日)、私が福岡弁護団に参加している薬害C型肝炎訴訟の福岡地裁審理において、3名の原告本人尋問が実施され、私はそのうちの原告のお一人の尋問を担当した。
40代の筑豊地方に住む主婦で、十数年前の出産時に、C型肝炎ウイルスに汚染されているフィブリノゲン製剤を止血剤として使用された結果、慢性のC型肝炎になったという被害者である。
慢性肝炎がいつ肝硬変・肝臓ガンに移行するかという恐怖の下で生活せざるを得ず、子供たちや夫にもその累が及ぶ辛さを切々と訴えるその原告の声は、傍聴席の多くが貰い泣きする程だった。
事情があって匿名で裁判を遂行しているが、実名公表の原告の方々と共に、国・製薬企業に懸命の戦いを挑んでいる。何とか勝訴判決を取りたいと思う。
皆さんのご支援の輪が広がって、裁判所と国・企業を包囲して行きたいと願う。トップページに薬害C型肝炎訴訟についてリンクが張ってあるので、是非、内容を知っていただいて、皆さんのご参加ご支援をお願いしたい。